ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年6月22日金曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 第3章 記憶と精神 その9 第九節 生への注意


ここでは、第九節『生への注意』(p.246 1行目−p.249 14行目)を見ていきます。まず、お断りしておきたいことがあります。それは、われわれの『精神』における『類似』について、第七節分において第五節分から以下のように引用し、述べたところがあります。

「『精神がそこから出発するところの類似は、感じられ、生きられた、あるいはお望みなら自動的に演じられた類似である。精神がそこへと戻るところの類似は、知的に認知され思考された類似である』(p.229 11行目−13行目)

以下、このような、二つの仕組みによる『一般観念』について考察されていく。

ベルクソンはこう言う。

『悟性と記憶の二重の努力によって、個体の知覚と類の概念が構成されるのは、まさにこの進展の途中に於いてなのである』(p.229 13行目-15行目)

以下、ベルクソンの言葉をそのまま引用する。ここでの『悟性』はあまり難しく考えず「理性」もしくは『知性』と考えれば良いし、『抽象』はこの前の文(p.229 7行目-9行目)に『抽象[抽出]』とあるように『抽出』と置き換えてもかまないだろう。

『 —記憶は自然発生的に抽象された類似に区別を付け加え、悟性は数々の類似についての習慣から一般性についての明晰な観念を引き出す』(p.229 15行目-16行目)

言い換えれば、『記憶』は『類似』を『抽出』し、『悟性』は『知的』に『個体』を『類(カテゴリ)』に分ける、としても良いと思う。」

以上のように特に『一般観念』における『精神』における『類似』に『悟性』が深く関わっていると解釈を改めたことから、この節でも同様に『悟性』が深く関連する事項に対しての解釈を変更することにしました。読者の皆様にはたびたびのご迷惑をお詫びいたします。また、変更点についてはこれまで通りできるだけ注を付けています。

(2012/05/21、2012/06/22筆者注 お断りとしての記述の部分を追加)

それでは、テキストを見ていきたいと思います。

早速最初の段落(p.246 2行目−6行目)を見よう。この段落は数行なので、全文を引用する。節の最初の導入部分であるので、書いてあることはごく抽象的である。まず、ここでは、『低次の心的生』という言葉が出てくるが、これは、前節まで受けてのことであるので、第七節のタイトル (p.238 14行目)にもなっているような『夢の平面』(図5で言えば平面AB)や『行動の平面』(図5で言えば点S)のような思われる。ほかに、『知的均衡』という言葉もあるが、これも、ここまで出てきた考察から、図5でいう平面A'B'とA''B''をゆれ動く、バランスの取れた精神状態ということと考えても良いように思われる。後の段落を見て頂くと分かるが、これがこの節のテーマの一つともなっている。では、引用しよう。

(2012/05/19筆者注 低次の心的生についての記述が間違っていたので修正しました。たびたびの間違いをお詫びいたします。また、それ以降の解説においても一つ一つの注は省略していますが全面的に修正をしています)

『低次の心的生に関するこれら多様な考察から、知的均衡についてのある考えが生じるだろう。この均衡が明らかに狂わされるのは、素材としてその均衡に役立つ諸要素の混乱によってのみだろう。ここでは、精神病理学の諸問題と取り組むことは問題になりえないだろう。しかしながら、われわれはそれらを完全に避けることもできない。というのも、身体と精神の厳密な関係を規定しようと努めているのだから。』(p.246 2行目−6行目)

前節までの『低次の心的生』を考察で、われわれは、この『低次の心的生』が十分に『知的均衡』に関わっているということを理論的には理解しているつもりだが、それを検証しようということだろう。すなわち、仮説-検証という科学で用いる考え方で、まず、これまで詳述されてきた仮説の『知的均衡』即ち精神的な健康であることを検証する必要があるということだろう。このあと、『ここでは、精神病理学の諸問題と取り組むことは問題になりえないだろう。』以降の部分は、『精神』や『知的均衡』において、その健全性を測ることと『精神病理学の諸問題』を扱うことは必ずしも直接的な関係があるわけではないが、そのような疾患がないということを『知的均衡』と考えれば、それらを無視することはできないだろう、と言ってiると思われる。


では、次の段落(p.246 7行目−p.247 11行目)を見てみよう。

『われわれは、精神が、行動の平面と夢の平面という二つの極限のあいだに含まれた間隔を絶えず踏破していると想定した。なすべき決定についてはどうだろうが。』(p.246 7行目−8行目)

まず、上記引用よりこの段落では、『なすべき決定』について、述べられるであろう事が分かる。ここまでは『一般観念』や『複合観念』において、二つの『低次の心的生』の極限の間を『絶えず走破する』ということが述べられてきたわけであるが、それをここではまとめて『精神』とベルクソンが呼んでいることが興味深い。その『精神』と『なすべき決定』がどのように関連するかということがここでは、詳しく述べられるのであろう。

(2012/05/21、2012/06/22筆者注 『類似』に関する『悟性』の関与の解釈変更により上記段落の記述を変更)

『われわれがその人の性格と呼ぶもののなかで、その人の経験の全体を寄せ集め組織しながら、その人は自分の経験の全体を諸行動へ集中させるだろうが、あなたはそれらの行動のうちに、それらの素材として役立っている過去と共に、人格がそれらに刻み込む予見されざる形を見いだすだろう。』(p.246 8行目−12行目)

『しかし行動は、現在の状況 —すなわち時間と空間における身体のある特定の位置から生じる諸情勢の全体— にそれが嵌め込まれる場合にだけ実現可能であろう。』(p.246 12行目−14行目)

(2012/05/25 以下、上の二つに分けた引用文の解説に関してはやや曖昧な記述を訂正、説明を詳しくした)

読みやすさを配慮し、ここでも一続きの引用文を二つに分けた。前段はやや難解だが、『決定』について考える場合、まず、『性格』あるいは『人格』が問題になっているのが分かるだろう。まず『性格』について、第三節分(下)では特にこのように触れていた。

「『しかし、仔細に眺めるならば、われわれの想起も同種の鎖を形成しており、われわれのあらゆる決定につねに随伴するわれわれの<性格>なるものも、まさにわれわれの過去の状態すべての現実的総合であるのが分かるだろう』(p.208 15行目−17行目:<>内はテキスト傍点付き)

この、われわれの想起及び性格の記述は、特に、性格については、納得できない人もいるだろう。ベルクソンの主張においては、われわれの『意識』が『知覚』を受け取ったときの行動は、もっぱら『純粋想起』に従って行われる、というのはこの章でも見てきたとおりである。そして、前章によると、『純粋想起』は『身体の論理』によって曖昧さを許さないところまで分解され、レコードの溝のように記録されているのであり、意識は、無意識が、現代コンピュータのようにパイプラインに並べた、『純粋想起』を現在の瞬間において処理し続けていく、ということであったことを思い出して頂きたい。そこに性格というものがあるとベルクソンは考えている解釈できるのではないだろうか。」

したがって、ここでは、『性格』は『過去の状態すべての現実的総合』と言って良いだろう。

(2012/05/26筆者注 また、ここで性格と人格について分けて述べることにした。そのためここまではは性格のみで終わり、人格については以下の四段落で触れている。)

また、『人格』について、この章で特に触れているところでは、第六節分でこのように記述していた。

「次に、『われわれは、われわれの人格全体が、われわれの想起の全体と共に、不可分のままわれわれの現在の知覚のなかに入っていると想定した。』(p.236 7行目‐8行目)とあるが、これは、具体的にはp.216 7行目‐p.219 5行目に記述されている、『知覚』をすでに過去としたときに、ただの情報でしかない『イマージュ記憶』が、『運動図式』とも表現される『純粋想起(記憶)』が元になった『感覚-運動的』な物質に働きかける力を使って物質世界に働きかけるという形で統合されることを言っているのであろう。例えば、そのあとp.219 6行目‐p.220 3行目までの段落には『「見事に調和のとれた」(bien équilibrés)精神』や「行動の人」、「衝動的な人」、「夢見る人」、「良識」、「実践感覚」などの記述が見られる。(図4も参照のこと)」

従って、人格とは、『記憶』と共に『知覚』と統合されるもの、先の引用文で言えばその作用として『あなたはそれらの行動のうちに、それらの素材として役立っている過去と共に、人格がそれらに刻み込む予見されざる形』を取るものである。言わば、その人における個々人の知覚や行動の規範あるいはこだわりのようなものということなのであろう。

(2012/05/27筆者注 ベルクソンにおいてはほかの言葉もそうだが、特にこの『人格』という言葉についての用法ははっきり説明する事が難しい。上段落の説明は、この部分だけでの検討ではなく、第一章における『人格』という言葉の用法も検討した。検討した部分の引用文はこの第九節分の末尾に付記として残しておくことにしたので興味のある方は参考にして頂きたい)

上記引用文、後段は、しかしながら、取りうる行動に関しては、われわれの肉体が物理世界にある以上、その物理的な制約の範囲に制限されてしまうということだろう。

(2012/05/29 上段落の解釈は誤りだったため訂正。ご迷惑をおかけします)

つぎに、

『知的な作業、形成すべき考え方、多数の想起から引き出される多少とも一般的な観念』(p.246 14行目)

を考えるとどうなるか。これらは『決定』よりもさらに抽象的で、高度に知的である。それが、『低次の心的生』と関わりがあるのだろうか。

ベルクソンはこう言う。

『一方では気まぐれな空想に、他方では論理的な判断に、大きな余地(marge)が残されている。しかし、観念は、存続しうるためには、何らかの側面で現在の現実に触れていなければならない。』(p.246 15行目−p.247 1行目)

(2012/05/30筆者注 下段落の解説はより正しく解説するために改めた)

まず、『気まぐれな空想』というのは、『イマージュ想起』もしくは、『夢の平面』を連想させる。一方で『論理的判断』に関しては、ベルクソンはこの書でははっきり定義していないが『理性』もしくは『知性』あるいは『悟性』の範疇に入るものであろう。それらには、『大きな余地(marge)』すなわち、いかようにも解釈できる部分がある。しかし、これまでみてきたように、『観念は、存続しうるためには、何らかの側面で現在の現実に触れていなければならない。』ということから、その余地は極小となるに違いない。

『言い換えるなら、観念そのものの漸次的減少ないし凝縮を通じて、精神によって表象されると同時に身体によって多少なりとも演じられうるものでなければならない。それゆえわれわれの身体は、一方ではわれわれの身体が受け取る諸感覚、他方ではわれわれの身体が実行することのできる諸運動を伴うもので、まさにわれわれの精神を固定するもの、われわれの精神に錘りと均衡を与えているものなのだ。』(p.247 1行目−6行目)

ここで少しだけ解説を加えるならば、『観念そのものの漸次的減少ないし凝縮』というのは、『悟性』による働きで記憶のできるだけ詳細な部分が挿入されようとするにもかかわらず、図4や図5で行動である点Sへ記憶が近づくにつれて、細部が切り落とされ省略されていく過程を意味している。そもそもが『観念』とは元をたどれば記憶に他ならず、細部はその中心的特徴的な想起に依存しており、その『隣接』によるつながりは様々な記憶の断面として定義できるものとこの書では考えられている。それが行動に近づくに従い中心的な部分に近い部分が残り、詳細部分は省略されて行くのであった。このことを思い出して頂ければ、読者諸氏には上のようなやや難解な文章もご理解頂けるのではないかと思う。

(2012/06/21 上段落の解説も『類似』に関する『悟性』の関与の解釈変更により記述を改めた)

それでは、この段落の締めの部分である。いつものように引用して終わろうと思う。しかし、まず、次の部分だけは少し解説しておきたい。

『精神の活動は積み重ねられた想起の集塊を無限にはみ出しているが、それはこれらの想起の集塊それ自体が、現在時の諸感覚と諸運動を無限にはみ出しているのと同様である。』(p.247 6行目−8行目)

『精神の活動』というのは、これまで見てきた『決定』もしくは、『知的な作業、形成すべき考え方、多数の想起から引き出される多少とも一般的な観念』の事であろう。それらは、先に見たように、『一方は気まぐれな空想に、他方では論理的な判断に、大きな余地(marge)が残されている』わけでもあるから、当然そのような働きの際に行われる『想起』同士の組合わせはその元となる『想起の集塊』を無限にはみ出しているだろうし、また、『想起の集塊』は『現在時の諸感覚と諸運動』に対して、様々な想起がそれに適合しうるものであるという意味で『無限にはみ出して』いるのだろう。

(2012/05/31筆者注 上段落の解説は正確にするために全面的に改めた)

『しかし、これらの感覚とこれらの運動は、<生への注意>と呼ばれるようなものを条件付けている。』(p.247 8行目−9行目、<>内テキスト傍点付き)

と続く。この部分については、すでに解説したように、われわれは『感覚』や『運動』、言い換えれば、われわれの『身体』によって、『錘りと均衡』が与えられる。もし、そうでなければ、われわれの思念は無秩序に宙を漂よい、まるででたらめな行動を取ることであろう。

では、この段落の結論を引用しよう。

『そういうわけで、通常の精神の働きにおいては、その先端を支えとして立っているピラミッドにおけるように、すべてがそれらの感覚と運動の凝集力に依存しているのである』(p.247 8行目−11行目)


次の段落(p.247 12行目−p.248 6行目)を見よう。いつものように、段落のはじめを引用する。ここでは、神経系(脳を含むと思われる)が神経細胞(脳細胞)の複雑ではあるが単なる集合体に過ぎず、末梢神経からの刺激を受け取り、運動をするための刺激を送り出すものであると述べている。

『それに、最近の数々の発見が明らかにしたような神経系の繊細な構造にざっと目を通してみなさい。至る所に伝導体は見出されるが、何処にも諸中枢はないと思われるだろう。端と端を合わせて置かれ、流れが通過するときにおそらくその末端が接近し合うような諸繊維それが目撃されているすべてのものである。そして、われわれがこの著作全体を通じて想定してきたように、身体が受け取られる刺激と成し遂げられる運動との会合場所に過ぎないのなら、それがおそらく存在するすべてのものであろう。』(p.247 12行目−17行目)

ここで解説は必要ないだろう。ただ、われわれは、ベルクソンがこのような解剖学的所見と観察の結果から『純粋記憶』あるいは『感覚-運動系』とでも名付けられるような、われわれの肉体における神経系がおりなす精神の働きをここまで詳細に洞察したことに驚くしかない、とも言える。

さて、この後数行も分かりやすいので、簡単に要約すれば、このようにわれわれの身体は無数の神経が張り巡らされており、その働き(『それらの結合の堅固さとそれらの正確さ』(p.248 2行目))によって『身体の感覚-運動的均衡、即ち現在の状況への身体の適応を保証している』(p.248 3行目)

この段落はこのあと下引用のように締めくくられて終わる。『この緊張』という言葉が出てくるが、この段落で『緊張』という言葉は初めて使われている。おそらくは、神経系が『現在の状況』へ身体を適応させるためにつねに張り詰めて働いている、ということを意味しているのだと思われる。また、前段落まで範囲を広げて考えるとするならば、その最後に、『通常の精神の働きにおいては、その先端を支えとして立っているピラミッドにおけるように、すべてがそれらの感覚と運動の凝集力に依存しているのである』とあった事を受けてこの段落が始まっていることを考えると、拡散しがちな『夢見る平面』上の記憶とそれらの『類似』や『近接』による組合わせという『精神活動』とこの『感覚と運動の凝集力』との間に生じる『緊張』とも考えられるだろう。

(2012/05/31筆者注 上段落の『この緊張』についての解釈について、張りめぐらされた神経自体の『緊張』という部分を削除し、「また、前段落まで」以降の部分を追加。)

『この緊張を弛緩させてみなさい。あるいはまた、この均衡を崩してみなさい。そうすれば、すべてはあたかも注意が生から逸らされたかのように進行するだろう。夢と精神異常(aliénation)はほとんどこれ以外のものであるようには思われない。』(p.248 4行目−6行目)


では、次の段落(p.248 7行目−p.249 14行目)を見ていこう。この段落がこの節の最後の段落となる。

『われわれは少し前で、睡眠には、諸ニューロン間の連帯の中断があると考える仮説について話した。<筆者註:p.221 4行目-5行目>例えこの仮説が受け入れられないとしても(それでもこの仮説は興味ある数々の実験によって確証されている)、深い睡眠中に、神経系における刺激と運動反応のあいだで確立された関係が、少なくとも機能的に中断されることははっきり想定しなければならないだろう。』(p.248 6行目−10行目)

一部に注釈を入れたが、この段落の最初の部分の引用に難しいところはないだろう。前段落の終わりに『夢と精神異常(aliénation)』に触れてあった。この段落では、まず、夢について考察するのであろう。続きを引用しよう。

『したがって、夢はつねに、注意が身体の感覚運動的均衡によっては固定されざる精神状態であろう。そして、神経系のこの弛緩は、覚醒状態における神経系の諸要素の正常な活動の老廃物によるその諸要素の中毒が原因であるというのもますます確からしく思える。』(p.248 11行目−14行目)

というように夢と睡眠について考察し、このあと、夢が精神異常の状態とよく似ていることを指摘する。

『ところで、夢はあらゆる点で精神異常を模倣する。狂気とすべての心理学的症状が夢において見出されるだけでなく —これら二つの状態の比較がすべてありふれたものになってしまったほどに—、精神異常もまさに脳の衰弱のうちにその原因を持っているように思われるのだが、脳の衰弱は通常の疲労と同じく、神経系の諸要素におけるある特殊な毒素の蓄積によって引き起こされるのだろう(4)』(p.248 14行目−p.249 1行目、(4)はテキストの文献番号)

ここでは、脳内の『毒素』のような専門的な事には触れない。おそらくこの辺りのことは、現代においてはより良く分かっていることもあるだろうし、また、分かっていないことも多いだろう。ただし、ここにあるように、われわれの脳が身体と同じように疲労を感じるのは間違いない。ただし、ベルクソンの言うようになんらかの疲労物質(『ある特殊な毒素の蓄積』)の『中毒』のような比較的簡単な理由で説明できるかどうかについてはやや疑問ではあるが当時の最新の研究に従っているということではあるだろう。続きを見ていこう。

『知られているように、精神異常はしばしば伝染病の結果として生じるし、そのうえ狂気のすべての諸条件は毒物実験によって再現できる(5)。したがって、精神異常における精神の均衡の急激な変化はまったく単純に、有機体において確立された感覚-運動的諸関係の混乱に起因しているのが本当らしくはないだろうか。』(p.249 1行目−4行目、(5)はテキストの文献番号)

このように、ベルクソンの考察はやや抽象的とはいえ、まったく現代的であると言って良いだろう。精神異常がすくなくても、二,三十年前(私の思春期ぐらい)までは、一般にカルマなどの非常に神秘的な要素が含まれているようにも考えられていたことと比べれば、一〇〇年以上前のベルクソンの考察は遙かに進歩的であると言わざるを得ない。続きを引用しよう。

『この混乱だけで、一種の心的なめまいを引き起こし、そうすることで、記憶と注意が現実との接触を失うことであろう。幾人かの狂人たちによって与えられた、彼らの病気の発生期についての記述を読んでみなさい。あたかも知覚された諸事物が彼らに対してそれらの立体感(relief)と個体性を失ったかのように、彼らが奇異性(étrangeté)の感情、あるいは彼らの言う「非-実在性」 (non-réalité)の感情をしばしば抱いていること、それが分かるだろう(6)』(p.249 5行目−10行目、(6)は文献番号)

『この混乱』とは、もちろん『感覚-運動的諸関係の混乱』のことだが、そのことが、脳という器官の『記憶と注意』(ここでの記憶とは『純粋記憶』のことであろうが)という働きを狂わせことにより、『狂人たち』の『病気の発生期』において、知覚を狂わせ、『諸事物が彼らに対してそれらの立体感(relief)と個体性を失ったかのように、彼らが奇異性(étrangeté)の感情、あるいは彼らの言う「非-実在性」 (non-réalité)の感情をしばしば抱』くことの原因であろうと述べていると言い換えることができるだろう。

このことは、この後にも述べられているが、これまで見てきたように、すべての現実的な運動の選択、あるいは、『人格』的な判断、あるいはもっと抽象的な観念に基づく思考のいずれも、現実・現在の『知覚』を元にしており、そのことと、『純粋知覚』が結びつく事によって得られる『感覚-運動的諸関係』とは切っても切り離せない。そうして、最終的な選択に迫られるときに、それらは『意識』として『無意識』の暗闇から光を当てられ、われわれは『諸事物』の『実在性』の感覚を持つ。こう言えるのではないだろうか。

では、この節の最後の部分を引用して終わろう。

『われわれの分析が正確ならば、われわれが現在の現実について有している具体的感情は実際、われわれの有機体が諸刺激に自然に反応する際の有効な諸運動についてわれわれが有する意識のうちに存することになろう。 —その結果、感覚と運動のあいだの関係が弛緩するあるいは損なわれる場合には、現実感覚が弱まり、あるいは消え失せる』(p.249 10行目−14行目)




※付記 『人格』についての第一章におけるベルクソンの記述の抜粋

ここでは、ベルクソンの『人格』という言葉について考察する時に第一章でその言葉の使われているところも検討したということもあり、その検討において、参照した部分を抜粋して記しておく。

まず、物質宇宙全体をイマージュとして考えることを述べた後、われわれの肉体が特別なイマージュであるということを説明して次のように述べている。

『私の宇宙の中心として、私の人格性(personalité)の物質的基礎として私が採用するのが、この特殊なイマージュなのである。』(p.75 6行目−8行目)

ほかに、知覚に関する『延長』について考察した部分に以下のような記述がある。

『しかし、われわれ自身の本性、われわれの人格の役割と使命もまた、大いなる謎に覆われたままである』(p.77 15行目−16行目)

また、知覚についてさらに考察を重ねた部分に『非人格的』という言葉がある。

『ただ彼らは、知覚が知覚された対象と一致するような非人格的な土台が存続すること、(以下略)』(p.82 12行目)

ほかに、知覚と想起が本質的に異なるということを主張している部分にこのようなところがある。

『あたかも知覚が、想起のようなやり方で、一つの内的状態のように、われわれの人格の単なる一つの変化のようにわれわれに与えられると推論することになるだろう。』(p.84 1行目−3行目)

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