ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年6月23日土曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 第三章 記憶と精神 その11 第十一節 身体の用途


 ここでは、第十一節『身体の用途』(p.251 4行目−p.253 1行目)を見ていきます。いよいよこの節で、長かった第三章も終わりになります。また、この節も前節に引き続き段落分けはありません。また、この節は、ほとんどこの章のまとめの内容ですので、分けて解説をするものの全文を引用することになるでしょう。

では、最初の部分を引用しよう。少し長めなので読みやすさを考えて二つに分けて引用するが元々は一つの文章だ。説明を加えずとも十分理解して頂けると思う。

『身体は想起を脳装置の形で保存するとの考え、記憶の喪失や減少はこれらの機構の多かれ少なかれ複雑な破壊に存し、反対に記憶の高揚や幻覚はそれらの活動の過剰さに存するとの考えは、このように推論によっても諸事実によっても確証されない。本当のところは、観察が一見するとこの見解を示唆するように思われる例がただ一つあるということだ』(p.251 5行目−8行目)

『われわれは失語症について、より一般的には、聴覚あるいは視覚の再認障害について話してみたい。それは、病気を脳の特定の回<筆者註:脳のひだの凸部分>のなかの一定の部位に期することができる唯一の例である。しかし、それはまさに、ある特定の想起の機械的であると同時に決定的な引き離しではなく、むしろ、関与する記憶の漸進的で機能的な衰弱が目撃されるような例でもある。』(p.251 8行目−13行目)

以上を簡単にまとめれば、
「脳に記憶が蓄えられるのではない。そのような考えに対する反証はたくさんこれまでにも見てきた。脳のある部分がそれに対応する記憶を保持するように思われるな例(ベルクソンが言うには『ただ一つ』の例)に失語症の症例がある。それは、前節最後に述べたような『機械的』な引き離しではなく、『むしろ、関与する記憶の漸進的で機能的な衰弱が目撃されるような例でもある』」。
ということになろうか。

『そしてわれわれは、脳の中に蓄積された想起の貯蔵をいかなる仕方でも想定する必要なしに、いかにして脳の損傷がこの衰弱を引き起こしうるのかを説明した。』(p.251 13行目−14行目)

『現実に損なわれるのは、この種の知覚に対応する感覚と運動の諸領域であり、とりわけそれらを内的に作動させることを可能とする付属物である。その結果、想起は引っ掛かるものをもはや見出さず、最終的には実際上無力になる。』(p.251 14行目−p.252 1行目)

これらのことは、第二章で詳しく説明したので、ここでは、脳は記憶を蓄積してはおらず、『運動図式』あるいは『純粋想起』あるいは、ある種の習慣とでも呼ぶべきものだけが脳には蓄積されており、特に『イマージュ想起』という時間の順番に並んでいる過去すべては脳以外のどこかにすべて保存されている、というベルクソンの主張を再度紹介しておくだけにする。

『ところで、心理学において無力は無意識を意味する。他のすべての例においては、観察されたあるいは想定された損傷は、決してはっきりと局所化されないものとして、その損傷が感覚-運動的連結の全体の総体を変質させるにせよ、それをばらばらに断片化するにせよ、この損傷が感覚-運動的連結の全体にもたらす混乱によって作用する。ここから、知的均衡の激変あるいは単純化が生じ、翻って、想起の無秩序あるいは分離が生じるのだ。』(p.252 1行目−6行目)

ここで、この第三章でのもっとも大きなテーマである『無意識』について触れられている。『無意識』の中では、前章で説明された『純粋想起』は、われわれが物質世界の中のいわば現実・現在の活動のなかで『感覚-運動的』なものとして、最終的に選択され決定・行動にされるときに、以下のようなことが行われていると説明されていた。

1.まず、感覚器官からの信号や情報を『純粋想起』全体のなかから『類似』や『隣接』という仕組みによって自動的に選択が行われる
2.実際の『行動』近くなるほど、『想起』ともいえる観念は細部を切り落とされ単純化されあるいはより抽象的なものとなる

上記の『無意識』の働きの流れのなかで『知的均衡』とは、第五節以降で説明されているように『悟性』によってできるだけ大きなより具体的な詳細が挿入されようとするために、必ず現実のそして現在の行動あるいは感覚器官からの信号や情報と結びつくものでありながらも、そのような直接すぐの行動としての選択としての想起よりも、より想起としての個性や具体性を残している状態のことであると言える。

(2012/06/19 上段落において、ここでも『類似』に関する『悟性』の働きについての解釈の変更のための修正をした)

したがって、『他のすべての例』つまり失語症以外の精神病の症例は、その脳内の『損傷が決してはっきりと局所化されないものとして、その損傷が感覚-運動的連結の全体の総体を変質させる』場合でも『それをばらばらに断片化する』という場合であっても、『この損傷が感覚-運動的連結の全体にもたらす混乱によって作用する』ことによって、『知的均衡の激変あるいは単純化が生じ、翻って、想起の無秩序あるいは分離が生じる』ということによって起こると考えられる、と上記引用文は言い換えることができるだろう。

ベルクソンの仮説ならば、第九節以降で見てきた様々な精神疾患もこのように合理的に説明できるのであるが、それとは異なる、たとえば、次のような学説はこれらのことをうまく説明することができないと彼は言う。

『記憶を脳の一つの直接的機能ならしめる学説、解くことのできない理論的な諸困難を提起する学説、どんな想像力をも凌駕する複雑さを有し、内的観察の所与とは相容れない帰結をもたらすような学説は、このように大脳病理学の支持をあてにすることさえできない』(p.252 6行目−9行目)

ここで、これらの『学説』を具体的に挙げて説明することはしない。理由として、まず、ベルクソンの仮説を支持するならば、検討する必要のないと思われる学説を追求していても仕方ない、と思う事と、さらに、それらをベルクソン自身がこれまでと異なり、かなり否定的に書いていながら具体的な学説名を挙げていないということがある。しかし、ここで学究的に具体的な興味を持たれている方のために参考までにいくつか挙げておくと、第三章に限るだけでも、唯物論(特に、脳にすべての記憶が蓄積されているという理論)や唯心論、あるいは、観念連合の理論などがあった。

以後、ベルクソンの学説がこれら他の学説に比べて優れている点が挙げられている。少々長いが、全文を引用してこの章を終わりたい。内容はこれまでのまとめであり、あまり難しくないとは思うが、念のために文章構成上のテクニックでやや難解になっていると思われる部分については引用文の後に多少私なりの解釈を載せておいた。参考にして頂ければ幸いである。

『すべての事実とすべての類推は、脳のなかに諸感覚と諸運動のあいだの仲介しか見えない理論に有利に働いているのだが、この理論によると、諸感覚と諸運動の全体は心的生の尖端、数々の出来事の織物のなかに絶えず差し込まれた尖端であり<※1>、また、このように身体には、記憶を現実的なものへと方向づけ、記憶を現在と改めて結びつける機能しか割り当てられないから、この記憶そのものは物質から完全に独立したものと見なされるだろう。この意味で脳は有用な想起を引き起こすことに貢献しているが、更にそのうえ、それ以外の想起のすべてを一時的に斥けることにも貢献している。われわれは、どうして記憶が物質のなかに宿ることになるのかは分からない。けれども、われわれは、—現代のある哲学者の深遠な言葉によれば— 「物質性はわれわれに忘却をもたらす(10)」<※2>ということをとても良く理解できるのである』(p.252 9行目−p.253 1行目、(10)は文献番号、<※1>、<※2>は下記註釈の番号)


【上記引用文の註】

※1.『諸感覚と諸運動の全体は心的生の尖端、数々の出来事の織物のなかに絶えず差し込まれた尖端であり、』の部分、ここは、まず、『数々の出来事の織物のなかに』というところが、その後の『行動』による変化をもたらす現実・現在の物理世界を表わしている、と考える。

そうすると、『諸感覚と諸運動の全体』はどうして『心的生の尖端』なのかという不思議さは、『尖端』という言葉が『絶えず差し込まれた尖端』と言い換えて説明されていることから、この『絶えず』言葉によって、はじめは尖端ではない部分でも時間が経過すれば最終的には『行動』という先端部分に移っていくということの説明であると考られる。

つまりは、常に、感覚器官から受け取った信号や情報が『類似』や『隣接』によって『純粋想起』と結びつき、それらは近い将来の行動として『絶えず』行動に移される、ということを、『諸感覚と諸運動の全体は心的生の尖端』、と表現しているのではないだろうか、と理解できるのではないかと思う。

※2.『物質性はわれわれに忘却をもたらす(10)」』とは、テキストの文献番号から、フランスの哲学者のラヴェッソンの言葉であることが分かる。これは何を意味しているのか、というのはベルクソンのいうように『深淵』であるということのまま、謎にしておくことも良いかと思ってはみたが、しかし、ラベッソンの本を読まずとも、ベルクソンがラベッソンの言葉を引いて何を言いたかったのか、文脈上から判断して、次のようなことが考えられることを、読者諸氏のご理解のために解釈の一つとして例示しておこうと思った。

ここで言う『忘却』とは、引用文からみて、まず、『脳は有用な想起を引き起こすことに貢献しているが、更にそのうえ、それ以外の想起のすべてを一時的に斥けることにも貢献している』という部分から、『有用』でない部分を『一時的に斥ける』ことと考えるべきであろう。そうすると、『忘却』をもたらす『物質性』というのは、もちろん、言わば、脳に蓄積可能な記憶としての『運動習慣』即ち『純粋想起』あるいは『感覚-運動的諸機能』(p.250 6行目−7行目)のことでであり、また、脳に蓄積されたこれら『運動図式』の情報は、あるいは無意識としてわれわれの行動を選択するものとして、言い換えれば、現実・現在の物理世界に『絶えず差し込まれた尖端』としての行動を決定するものとして機能しているところの脳の『物質性』も指しているであろう。

また、この脳の『物質性』がうまく働かないとき、言い換えるならば、脳の『感覚-運動的諸機能』に何らかの異常がある場合には、『想起はもはや引っ掛かるものを見出』さない(p.251 17行目−p.252 1行目)ということから『忘却』するということもまた当然言えるだろう。

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