ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年4月5日木曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その5 第五節 一般観念と記憶 (下)



では、次の段落(p.226 17行目-p.228 14行目)を見よう。前の段落の終わりを受けて、『しかし』で始まってはいるものの、実際は、更に深く詳しい考察が始まるようだ。

『しかしこのことは、諸事物についてのわれわれの知覚のまったく実利的な起源に立ち返る場合に明瞭に現れるだろう』(p.226 17行目-p.227 1行目)

『ある与えられた状況のなかでわれわれの関心を惹くもの、われわれがその状況に置いて最初に捉えねばならないものは、その状況にあって一つの傾向あるいは欲求に応答しうる側面である』(p.227 1行目-3行目)

このように、『知覚の実利的な起源』として、『欲求に応答しうる側面』ということをまず挙げている。例えば、われわれがリンゴを食べたいと思ったとき、われわれの記憶にあるリンゴと同じものを探すだろう。以下このような考察がされる。

まず、このあと、軽く、

『ところで欲求は類似あるいは性質へと直進し、個体的差はまるで気にかけない』(p.227 3行目-4行目)

と述べ、具体的な例として『草食獣類を引きつけるのは牧草<一般>』あるということを挙げている。(p.227 4行目-5行目、<>はテキスト傍点付き)以下、数行まとめると、こうなるだろう。『草食獣類』は、『牧草』の『色と香り』つまり『知覚』の『最初に捉えなければならない一つの傾向あるいは欲求に応答しうる側面』を、『記憶』の『一般性あるいは類似』をもとに、『対比を浮き彫りにし、この対比から区別』しているだろう。

もちろん、そこで『草食獣』は、『類(ジャンル)』を『思考している』のではないし、また食欲という『欲求』が問題となっているだけであるので、『草食獣』にとっては、牧草の『個体的差異』よりは、『欲求に応じとうしうる側面』、つまるところ『牧草の色と香り』、『それだけが外的知覚の直接所与』となる。(ここまでp.227 4行目-9行目を要約)

したがって、その『草食獣』は、移動したときの『景色』やその他『牧場』などの『区別』をするだろうが、それらは、かれらの『知覚における余分なのであって、その必要不可欠なものではない』(p.227 9行目-11行目)

さて、ここでベルクソンは、読者の中には、この例を挙げるのは『問題の引き延ばしではないのか』、もしくは、また『無意識』についての『心理学的性質』を取り上げてるのではないのか、という不満を持つ読者もいるかもしれない、と言う。(p.227 11行目-14行目を要約)

(2012/04/02筆者注 上の段落はもとは二つに分けていたものを一つにした。理由は、ほぼ意味的に重なっている部分が多かったため内容を簡明にすることにした)

そう言いながら、ベルクソンはこう続けていく。

『類似を引き出すのは、われわれの考えでは、心理学的性質ではないのだ。』(p.227 14行目-15行目)

『この類似は一つの力として客観的に作用しており、同じ真相の原因に同じ全体的帰結が接続するまったく物理学的法則のせいで、同一の反応を引き起こしているのだ』(p.227 15行目-17行目)

『草食獣』の『食欲』を満たすための『牧草<一般>』に対する『色と香り』だけを問題にする『知覚』が、『物理学的法則のせいで同一の反応を引き起こしている』とベルクソンは言いたいのだろうか。

以下少し要約するが、ベルクソンの主張はこう展開される。

『類似の作用』は、『塩酸』が『大理石やチョーク』などの『石灰の炭酸塩』に対して『つねに同じ仕方』で『作用する』からといって、『酸がいくつかの種(エスペス)のあいだで、ある一つの類(ジャンル)の特徴を見分けている』ということはない。同様に、『植物が非常に様々な土壌から栄養物として役立つはずの同じ諸要素を決まって抽出する行為のあいだに、本質的な相違は存在しない』(p.227 17行目-p.228 5行目を要約)

すなわち、『草食獣』が食べられる『牧草』を見分けて食べるのと『塩酸』が『石灰の炭酸塩』に『作用』するのは、植物の根が栄養を吸収する例と同様に『本質的な相違はない』と言いたいのだろう。

このあと、『アメーバ』の例が出てくるのだが、同様の論が展開されている。ここでは、要点だけ述べたい。

『微少動物は、それが自らにどうか吸収できる多様な有機質から、差異ではなく類似を感じるだろう』(p.226 6行目-7行目)

(2012/04/03 一段落削除)

『要するに、鉱物から植物へ、植物からより単純な意識的存在へ、動物から人間へと、ある操作の進展が辿られているのだが、この操作によって諸存在[人々]は、その周囲にあってこれらの事物と存在を引き付けるもの、それらに実践的な関心を抱かせるものを把握する。』(p.228 8行目-11行目)

次の文は少し不思議な文章であるが、そのまま紹介しよう。

『ただし、その際、周囲の他のものはそれらにとって何ら影響を持たないままなので、これらの事物と存在はその関心を惹くものを抽出する必要はないのだ』(p.228 11行目-12行目)

これは、例えば『草食獣』は食物である『牧草』を『類似』の作用で抽出する。したがって、『牧草』と『類似』してないものは、すなわち関心を向ける必要がないものであるということであろう。

この段落も、最後の文を紹介して終わろう。

『表面的には相異なる諸作用へのこの反応の同一性こそ、人間の意識がそれを一般観念へ発達させるところの萌芽なのである』(p.228 12行目-14行目)


では、次の段落(p.228 15行目-p.230 8行目)を見てみよう。

『実際に、われわれの神経系の用途を、それがその構造から帰結するように見えるがままに熟考してみなさい』(p.228 15行目-16行目)

神経の仕組みを検討することで、『物理学的法則のせいで同一の反応を引き起こしている』(p.227 17行目)のと同様の機構がわれわれの身体の中に構成されているのかどうか、ということをもっと検討しよう、ということなのだろう。

(2012/04/03筆者注 上段落、後半部分を削除、変更)

以下、しばらく要約すると、

われわれの『多様な知覚装置』は神経を通じて『中枢』に集められ、『運動装置』(p.228 16行目)とベルクソンが呼ぶ『純粋記憶』を介してのわれわれの肉体の反応へ結びつけられている。われわれの『感覚』すなわち『記憶』を介した『知覚』はすでに見てきたように、様々に解釈できる『ニュアンス』を帯びている訳であるが、『運動装置』は一度結び付けられた反応を『機能』として繰り返すだけだろう。(p.228 16行目-p.229 2行目を要約)

『それゆえ』とベルクソンは言う。

『それゆえ、知覚の表面細部には可能な限り相異なる知覚が想定されうる。それらの知覚が同じ運動反応によって引き継がれるなら、有機体がそれから同じ有用な結果を抽出できるなら、それらの知覚が身体に同じ態度を刻み込むなら、何か共通のものがそれから引き出されるだろうし、一般観念は表象されるより前に、そのようなものとして感じられ蒙るだろう』(p.229 3行目-6行目)

こうして、神経系を子細に検討し考察すれば、『感覚‐運動的』な機構が、実は『一般観念』として構成される元となる感覚、すなわち『一般観念は表象されるより前に、そのようなものとして感じられ蒙るだろう』というものとして、まさしくそこに存在するとベルクソンは言っているのだろう。『その様なものとして感じられ蒙る』のは『感覚‐運動的』な機構が、これまでも見てきたように無意識としてわれわれの脳の中で処理されているからであろう。

(2012/04/03筆者注 上段落は前半部分の文章を再構成、さらに後半部の解説を付け加えた)

かくて、われわれがこの節の始めで見てきたような以下のような循環、

『それゆえ、われわれはまさに実際に循環に陥っているのであって、唯名論はわれわれを概念論へと導き、概念論はわれわれを唯名論へと連れ戻すのだ』(p.225 11行目-13行目)

という循環から解き放たれた、とベルクソンは主張する。

つまり、『精神がそこから出発するところ類似は、』このような、一種『自動的』な『感覚-運動的』な機構から発生する類似であるのに対し、『精神がそこへ戻るところの類似は、知的に認知され思考された類似である』。言い方を変えると、大きいものを見たときに見たときに何かを感じるのはある種先天的な機構であるのに対し、『一般観念』として『類(ジャンル)』を区別するような『類似』は『知的に認知され思考された類似である』と言うことだろう。(以上、p.229 6行目-13行目を要約)

以下、このような、二つの仕組みによる『一般観念』について考察されていく。

ベルクソンはこう言う。

『悟性と記憶の二重の努力によって、個体の知覚と類の概念が構成されるのは、まさにこの進展の途中に於いてなのである』(p.229 13行目-15行目)

以下、ベルクソンの言葉をそのまま引用する。ここでの『悟性』はあまり難しく考えず「理性」もしくは『知性』と考えれば良し、『抽象』はこの前の文(p.229 7行目-9行目)に『抽象[抽出]』とあるように『抽出』と置き換えてもかまないだろう。

『 —記憶は自然発生的に抽象された類似に区別を付け加え、悟性は数々の類似についての習慣から一般性についての明晰な観念を引き出す』(p.229 15行目-16行目)

言い換えれば、『記憶』は『類似』を『抽出』し、『悟性』は『知的』に『個体』を『類(カテゴリ)』に分ける、としても良いと思う。

以下、しばらく、同じ内容を書いてある。読者諸氏は余分に感じられるかもしれないが、後々の解説のためにすべてを引用したい。

(2012/03/25筆者注 上段落、一部表現を改めた)

『一般性についてのこの観念は当初、多様な状況に置ける態度の同一性についてのわれわれの意識でしかなかった。それは、諸運動の領域から思考の領域へと遡上する習慣そのものであった 』(p.229 16行目-p.230 1行目)

『しかし、そのように習慣によって機械的に素描された類から、われわれは、この操作そのものに対して遂行された反省の努力によって、<類への一般観念>へ移行した。そして、この観念がひとたび形成されると、われわれは、今度は自分の意志で、無数の一般的観念を構築した』(p.230 2行目-5行目、<>内テキスト傍点つき)

以上は、ベルクソン自身による一般観念についてのここまでの考察のまとめと言っても良いだろう。

さて、この段落はここまでのまとめにとどまらず、ベルクソンはこれらが元になってわれわれの「話す言葉」の機構となっていると言う。その部分を引用しよう。

(2012/04/04筆者注 以下の引用は念入りに解説する必要性もあるかもしれない。しかし、現在の時点ではこのままにしておく。あまり余分なことを私が追記するのはよろしくないと判断したため)

『ここではこの構築の細部において知性のあとを辿ることは必要ではない。悟性も同様に、自然の働きをまねて、今度は数々の人工的な運動装置を組み立て、それらを限られた数でありながら、限りなく多くの個体的対象に反応させているとだけ言っておこう』(p.230 5行目-7行目)

『これらの機構の全体が文節的発語(parole articlée)なのである』(p.230 8行目)


では、次の段落(p.230 9行目-15行目)をみよう。

この段落は短い。内容的には、前段落の補足に相当するだろう。これまで通り、最初と最後の文だけを引用し、他は可能な限り内容を要約したいと思うが、段落が短いので結果として全文を引用することになる。

では、まず、最初の文はこうである。

『それに、一方は個体を識別し、他方は類を構築する、これら二つの分岐した精神の操作は、同じ努力を必要とし、等しい速さで進歩するにはほど遠い代物である』(p.230 8行目-9行目)

この文は『努力』は同じでも『進歩』の『速さ』は違う、という解釈も可能だし、『努力』も『進歩』も両方大きく異なるというように読める。段落の内容を見ていくことで判断したい。実をいうと、これが具体的にはどういうことか、ということが、この段落の内容なのだ。

(2012/04/03筆者注 本来『努力』と『進歩』が一つの組であるのに『操作』と『進歩』が一組であるような記述をしていたため修正。この修正はこの段落すべてに及びます)

さて、上記の引用について少しだけ解説を加えると、前者、『個体を識別する』というのは、『記憶』が『自然発生的に』抽出する類似の働きによるものであろう。また、後者『類を構築する』というのは、『悟性』による『<類の一般観念>』(p.230 3行目:<>内はテキスト傍点付き)の構築であり、ベルクソンはこれを『知的に認知され思考された』(p.229 13行目)と表現していた。

では、以降のベルクソンの説明をみよう。

『前者は記憶の介入しか必要とせず、我々の経験の最初から成し遂げられている。後者は、決して完成することなく無制限に継続されている。』(p.230 10行目-12行目)

ここが、まず、一つ目のポイントだろう。ということはどうも、この段落の内容は、『努力』も『進歩』も大きく違うというのが正解だろうと思われる。

この段落の残りは、もう一つのポイントがある。その詳細は内容は、次の段落で詳しく述べられることになるであろう。若干難しい表現もあるが、ここまで読まれてきた読者諸氏なら解説せずとも大丈夫だと思うので、残りすべてを引用し、この段落を終わりたい。

『前者は、安定した諸イマージュを構成するに至り、今度はそれらのイマージュが記憶の中に蓄えられる。後者は不安定で束の間の表象を形成する。この最後の点で立ち止まろう。我々はここで心的生の一つの本質的な現象に触れている』(p.230 12行目-15行目)


それでは次の段落(p.230 16行目-p.231 14行目)をみてみよう。

この段落はまず、最初の行から重要なことが述べてある。

『一般観念の本質は実際、行動の領域と純粋記憶の領域のあいだを絶えず動くことである』(p.230 16行目)

ここからは図5を用いて説明される。
(2011/07/02筆者注  図4を図5へ。その他不必要な記述を削除)



まず、点Sはわれわれの身体である。底面ABについてはベルクソンの言葉を借りれば、こうなる。

『底面ABの表面には、こう言ってよければ、私の数々の想起がその全体において置かれていだろう』(p.231 1行目-2行目)

そうすると、この段落の最初の文の『行動の領域』は点Sとなり、『純粋記憶の領域』は底面ABとなる。なぜ、未来である底面ABが『純粋記憶』かは、読者諸氏におかれては説明なしにお判りいただけるだろう。『知覚』から『無意識』の領域に於いて、それこそ無意識的に想起されるのが、『純粋記憶』であるから、将来の知覚には無数のわれわれの『純粋記憶』が置かれていると言える。(2012/04/05筆者追記 そして、筆者個人の意見を付け加えれば、それはは、それぞれのイマージュ想起と何らかの形で結びついているであろう。というのもそれらは差違を感じるものの筈であるからだ)

(2011/7/2 補足すると、底面ABは図4では、イマージュ記憶を想定していた。図5では、記憶すべてという点では同じだが、すべての『純粋記憶』という説明があるところが異なる)

そして、一般観念といえば、

『このように規定された円錐のなかで、一般観念は頂点Sと底面ABの間を絶え間なく揺れ動くだろう』(p.231 3行目-4行目)

と、ベルクソンは言う。もうしばらく引用してみよう。

『Sにおいて一般観念は、身体のある態度や発音されたある語のように非常に明確な形を取るだろう。ABにおいても一般観念は、それと同様に明確な相貌をまとうが、この相貌は一般観念のもろい統一性が砕けたその破片たる無数の個体的イマージュの相貌だろう』(p.231 4行目-7行目)

このあと、『心理学』に対する批判があるのだが、そこは省略することにし、ここまでを説明したい。

(2012/04/04筆者注 以下、二つの段落を説明を分かりやすくするために分け方を変え、意味的なまとまりから三つの段落にした。)

まず、点Sは我々の身体であり現在であるが、『態度』や『発音されたある語』である限りは、『感覚-運動的な』われわれの身体の『運動』に相当する。つまり、すでに決定された『行動』である。循環的な説明になるかもしれないが、すなわち、ここでは、『一般観念は、身体のある態度や発音されたある語のように非常に明確な形を取るだろう。』(p.231 4行目-5行目)

一方、底面ABは当然、『感覚』であるが、しばらく先の未来の『感覚』であり、当然決定されておらず、『知覚』された後、『純粋記憶』によって『行動』へ移されるべき、将来の『感覚』である。将来の『感覚』には『行動』へ移されるべき、われわれの身体における因果関係はありえず、つまりばらばらで統合されてはいないだろう。すなわち、『破片たる無数の個体イマージュの相貌』が、それらの『一般観念』のもうひとつの『相貌』となる。

この『一般観念』の『相貌』はもう説明するまでもないだろうが、前前段落や、前段落で議論された、一般観念のたとえば、『一方は個体を識別し、他方は類を構築する』(p.230 9行目)二つの側面のことである。

ここで、『心理学』についてのベルクソンの批判をごく簡単にしておくと、それはこの二つの極端な面しか見ていないということに尽きるということだ。

(2012/04/04筆者注 上段落はまた逆の意味の解説をしていました。本当に申し訳なく思います。したがって一部変更したのち、以下、ベルクソンの主張の部分を引用しています)

すなわち、

『しかし、本当のところは、われわれが一般観念をこれら二つの極端の一方あるいは他方に固定するやいなや、一般観念はわれわれから逃げ去るのだ』(p.231 11行目−12行目)

ということになる。

それでは、上の引用文に続く、この段落の最後の文を引用してこの段落の説明を終えよう。

『一般観念は一方から他方へと進む二重の流れに存していて -その流れはつねに、発音された語へと結晶化しようとしているが、想起へと蒸発しようとしているかのどちらかである』(p.231 12行目-14行目)


では、次の段落(p.231 15行目―p.232 12行目)を見よう。この段落がこの節の最後の段落となる。

まず、最初の文は、

『ということは、点Sによって表された感覚-運動機構とABに置かれた想起の全体とのあいだには、われわれが前章で予感させたように、同じ円錐の断面A'B'、A''B''等によって表されるわれわれの心的生の無数の反復のための余地がある、と言うに等しい。』(p.232 15行目−17行目)

テキストをお持ちの方は図5を参照していただきたい。しかし、図5を見ずとも大体の読者はこの分が何を言いたいのかは分かるだろう。『前章で予感させた』というのは、前章の最後のまとめの部分をいっているのだろう。例えば、

『潜在的イマージュは潜在的感覚へ進展し、潜在的感覚は現実的運動へ進展するこの運動は、自らを現実化しつつ、感覚—この運動はそれを自然に引き延ばしたものである—と、感覚と一体化せんとしたイマージュの双方を同時に現実化する』(p.176 13行目―16行目)

(2012/04/04筆者注 上引用の部分は、更に詳しくするために後半部分を改めて挿入した)

などが書かれており、最終的には、

『これにより、われわれは、これらの潜在的状態を掘り下げると共に、心的活動ならびに精神生理学的諸活動の内的機構のうちにさらに深く入り込むことで、いかなる連続的進展によって、過去がその失われた影響力を取り戻して現実化されるのを示すつもりである。』(p.176 16行目―p.177 2行目)

で結ばれる。前章の解説のときには、これからも研究するつもりだ、ぐらいに採っておけば良いと言ったが、実は、最終的に、ここに係ってきたという指摘だと思われる。

このあと、p.219にあった『<夢見る人>』や『<衝動的な人>』(いずれも<>内はテキスト傍点付き)に関する話が出るが、簡単にまとめると『<夢見る人>』は『夢の生』に生きているので点Sの『感覚‐運動機構』から底面ABへと『分散』し、『<衝動的な人>』は『現実』に『固着』し点Sへ『凝縮する』。しかし、『正常な自我』は、極端に『固定』されず、『そのあいだを動き、中間的諸断面によって表象される数々の位置を代わる代わる採用する』。(p.231 17行目―p.232 6行目を要約)

では、この段落の最後の文を引用してこの節を終わろう。

『言い換えるなら、正常な自我は、みずからの諸表象に、それらの表象が現在の行動に有効に行動することができるのに十分なだけ多くのイマージュと観念を与えるのである。』(p.232 10行目―12行目)

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