ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年3月1日木曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識につ いて (下)



次の段落(p.210 4行目-p.212 11行目)をみよう。

ここは、まず、こう始まる。

『しかし、われわれはここで<現実存在(existence)>をめぐる主要な問題について触れている。』(p.210 4行目:<>内はテキスト傍点付きとイタリック)

われわれ一般の人間にはなんだかよくわかりもしないような大変難しい問題に、ここにおいて触れているという。実際、ベルクソンは続けてこう言っている。

『われわれはこの問題について軽く触れることだけしかできない。さもなければ、問題から問題へと連れ回された後で、形而上学の核心そのものに導かれることになろう。』(p.210 4行目-6行目)

 と言っている。ここまで、『現実存在(existence)』、『形而上学の核心』とは何かが難しいが、要するに、なぜわれわれは生きているか、ということを考え出すと止まらないどころか、どっか遠くの方に行ってしまう。たとえば、生命とは何か、とか、魂とは、とか。そのようなことを言っているのであろう。

では、ベルクソンはどのように考えて行こうとしているのか。

『経験に係る諸事象 —ここでわれわれの関心を占めている唯一のもの— について、現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。』(p.210 6行目-8行目)

『経験に係わる諸事象』というところが難しい。『経験』ここまで、空間とその広がりの中で現在起っている物理的な現象と解釈してきた。『経験に係わる諸事象』もほぼ同様の意味であると考えることも可能である。しかし、ここでは、『直接的未来』と現在の状況に類似した『想起』そして、それらを結びつけるわれわれの『生き生きとしたイマージュ』も関係してくるという解釈も十分可能だと思われる。ここでは『連結された二つの条件』という言葉を含めてあとの文章を読まなければ、はっきりとしたことは言えないであろう。

(2012年2月15日筆者注:上の段落においては、草稿では必ずしも正しくない解釈を残していたが、今回、書き改めた。理由はやはり私なりに正しいと考える解釈を表わすべきと思ったこと。以前の文章は、草稿として公開していることも理由の一つ)

それでは、『連結された二つの条件』についてふれてあると思われる続きの文章を見てみよう。

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

この行も、なかなか難解であるけれども、前行においての考察からなんとなく理解できるような気もする。しかし、実際、続きをみないと、この行だけではよく分からない部分も多い。そこで、この行の解釈も、しばらく置いておいて、次へ進んで生きたい。この行は、これからベルクソンが展開して行くであろう『二つの条件』のそれぞれのタイトルと現在は捕らえておくことにする。

次の行(p.210 10行目-13行目)は、少し要約したい。難しくはないが、日本語で訳した場合、文の構造が複雑になってしまう、そのようなことが起きてると思われるからだ。

従ってこのように要約する。「われわれのいまの心のあり方、あるいは、ベルクソンの仮説ではその対称をなす物理的存在を、われわれがいままさにそれを感じているという『実在性』というものは、『われわれの意識がそれらを知覚していること』、と、それらが『物理的空間』における物理法則による因果関係によって『時間的あるいは空間的系列』の『一部をなしている』、という『二重の事実』の内にある」。もっと簡単に言うと、われわれが、いまそこにある、と感じられるのは、じつは、われわれが『知覚』しているから、ということと、物質が物理法則に従って『物質空間』に存在してるという、『二重の事実』がそこにはある、とベルクソンは言っているのである。

つまり、これは、

『経験に係る諸事象 —ここでわれわれの関心を占めている唯一のもの— について、現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 6行目-10行目)

を言葉を換えて言い直したものであろう。

(2012年2月26日筆者注 上3段落、すなわち「つまり、これは、」から引用を挟んで 「を言葉を換えて言い直したものであろう」までを挿入)

『われわれの意識がそれらを知覚している』の部分はいっそ、観測している、という計量化を目的とする物理学で使われる常套句を用いたいように思うが、しかし、『意識』が『知覚』する限りに置いて、『純粋想起』がここに関連しているのではないか、と考える方が普通であろう。(もちろん、すでに第一章などで述べられた知覚の本質的な不完全性もあるかもしれない。)

さて、ここからの文章は少しまとめて呈示してみたい。そうでないと、なかなか意味をくみ取るのが難しい、という解説上の都合もある。

まず、

『しかし、この二つの条件は程度の多寡を容認するもので、どちらも必要条件でありながら、等しからざる仕方で満たされだろうと考えられる。』(p.210 13行目-15行目)

とある。この部分は、言葉はこれまでに比べて比較的平易だが、何をいいたいのかが非常に難解だ。それで、『この二つの条件』が、

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

言い換えれば、「『われわれの意識がそれらを知覚していること』」と、「『物理的空間』における物理法則による因果関係によって『時間的あるいは空間的系列』の『一部をなしている』」という「『二重の事実』」

(2012年2月26日筆者注 上一段落を挿入)

であったことを思い出してもらいながら、以下、一文ごとに、難しい語句についてのみ少々解説し、ある程度まで進んでからまとめの解説を行いたい。

『例えば、現在の内的状態の場合には、結合はそれほど緊密ではなく、過去による現在の決定は偶然性(contingence)大きな余地を残しており、数学的導出の特徴を持っていない。』(p.210 15行目-17行目)

『 —それに引き換え、意識の現前化は完璧であって、現在の心理学的状態は、われわれがそれを目にしている行為そのもののなかで、その内容の全体をわれわれに引き渡す。』(p.210 17行目-p.211 2行目)

ここまでは、われわれの過去(ここでは『純粋想起』)から、『知覚』によって現在の行動が決定されるまでのわれわれの内的な状況を説明しているのだろう。つまり、知覚されたことで最終的に行動が決定されるまでは、記憶の結びつきというのは、ある程度、予測されているとはいえ、決定されたものではない。『知覚』よって、ここではわかりやすく、外的なイベントと言い換えても良いだろうが、それによってはじめて『感覚』として決定され、それらすべてが、われわれは、自分の内的なこととして『意識』によって把握されている、ということが言いたいのであろう。

『反対に、外的諸対象に関しては、これらの対象は、必然的な諸法則に従っているのだから、完全なのは結合の方である。』(p.211 2行目-3行目)

『しかし、そのときもう一方の条件である意識への現前化のほうは、部分的に満たされているにすぎない。』(p.211 3行目-4行目)

ここまでくると、賢明なる読者諸氏においては、ベルクソンが何が言いたいかはおわかりであろう。外的な『物質空間』においては、物理的法則に支配され曖昧なところはない。しかし、受け取るわれわれにとって、『知覚』している部分だけでも十分すぎる情報量によって、あるいは、一部に限られてしまってるが為に、『感覚』という内的状態のようにすべてを把握しきれる物ではない、ということを言いたいのだろう。次の行はそのようなことが書かれているのだが、あまり難しくないので省略しよう。

結論として、

『 —われわれはそれゆえ、経験的な意味での現実存在は、意識的な把握と規則的な結合をつねに同時に、しかし様々に異なる程度で含意していると言わなければならないだろう』(p.210 7行目-9行目)

ここまで来れば、前出『二つの条件』が『知覚』として説明された内的状態と物理的な外部の状態の対照的な把握の仕方であり、『どちらも必要条件でありながら、等しからざる仕方で満たされている』(p.210 13行目-14行目)ということも理解していただけたはずである。

(2012年2月26日筆者注 「『知覚』として説明された」と「物理的な」という部分を挿入)

次へ進もう。

『われわれの悟性は、明確な区別を打ち立てることを機能としており、そのため、少しもこのような仕方で事態を把握していない』(p.211 9行目-10行目)

『悟性』という難しげな哲学用語が出てきた。小林秀雄さんによるとベルクソンの『悟性』には、常識という物が深く係わっている、あるいは、常識と同じ意味にとって良いと言っているのだが、小林秀雄さんのいう常識もなかなか難しいものがあって、一言には言い切れない。小林秀雄さんが何と言ってるかは、確か、講演を文章にな直したものに「常識について」というものがあったと記憶しているので、そちらを読んでいただきたい。ここでは、「理性的、論理的に考える能力」ぐらいに採っておけばいいと思う。

次の一文(p.211 10行目-15行目)は長いのだが、

『現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われるとだけ言っておこう。』(p.210 7行目-8行目)

という部分を思い出してもらいさえすれば、書いてある内容は難しくないので、次のように要約したい。

「前行にもあるように『悟性』は、内的な状態と外的な状態の二つの条件が混ざり合ってるということを、いちいち把握して考えず、この二つの条件を『外的諸対象』(p.211 12行目)と『内的諸対象』(p.211 13行目)にのそれぞれに分離させ、『外的諸対象』が支配的な場合は内的な状態の度合いを従属的に、『内的諸対象』が支配的な場合は外的な状態の度合いを従属的に割り当てて物事を把握しようとする。」

『そのとき、心理学的諸状態の現実存在は、意識によるそれらの状態の把握のうちに全面的に存するだろうし、外的諸状態の現実存在も同じく、それらの同時性ならびにそれらの継起との厳密な秩序のうちに全面的に存するだろう。』(p.211 15行目-17行目)

と続く。この引用文は若干言葉が難しいところがあるだけで、内容はほぼ同じだと分かっていただけると思う。念のために『外的諸状態の現実存在も同じく、それらの同時性ならびにそれらの継起との厳密な秩序のうちに』の部分だけ解説しておこうと思う。

ここでは、『外的諸状態』についてのみ、考えればいいのであるから、同時性、というのは、『現実空間』に同時に存在する、ということであり、『それらの継起との厳密な秩序』とは、物理法則に支配されている因果律に従う、というこれまでどおりの主張が繰り返されているだけのことである。

ここまでの『悟性』についての記述をまとめると『二つの条件』として挙げられたものの、支配的な方によって物事を把握しようとする、とごく簡単にまとめられるだろう。

ごくわかりやすく例を挙げて説明すれば、ものごとの捉え方を「冷えたジュースが机の上にある」とか、「運が悪かった」とか、主語になる名詞(もしくは代名詞)が、具象的か抽象的かということで、われわれ(の『悟性』)は『内的諸状態』もしくは『外的諸状態』の『現実存在』のうち支配的な方を表現している、と思えばいいのではないかと思う。続きを見れば、
(2012年2月26日筆者注 あとの説明の順に従い、「冷えたジュースが机の上にある」とか、「運が悪かった」とか と、具象的か抽象的か、について前後の順を入れ替えた)

『このことから、現実存在しているが、知覚されざる物質的対象には意識への関与を少しも残すことができなくなり、意識的ならざる内的状態には、現実存在への関与を少しも残すことができなくなるのだ。』(p.211 17行目-p.212 3行目)

と書いてある。すなわち、上記のようなことが行われる結果、『知覚されざる物質的対象』、つまり、把握しきれていない『現実存在』に対しては「運」という抽象的な名詞を割り当て、『意識の関与を少しも残すことができなくなり』、『意識的ならざる内的状態』には「冷えたジュース」という表現を使うことによって『現実存在への関与を少しも残すことができなくなるのだ』、と、ベルクソンは主張しているのであろう。

さて、これから先この段落の最後のまとめにはいるわけだが、まず、次の文章にある『この著作の冒頭』というのが具体的にどこを指すかが難しい。具体的に見ていこう。

『われわれは、この著作の冒頭で、第一の錯覚の諸帰結を示した。この錯覚は、物質についてのわれわれの表象を歪曲するに至ったのだ。』(p.212 3行目-4行目)

『第一の錯覚』とは、当然、この段落でも触れている『物質空間』あるいは『外的諸条件』に対する認識だろう。われわれは、これらに対して、すべてを知り得ない、あるいは情報が多すぎる、などの『知覚』の条件と、未来は心理的に脅威に満ちているということから、『形而学上』のたとえば「運」という言葉で表現していると理解してきたはずだ。つまりは、『この錯覚は、物質についてのわれわれの表象を歪曲するに至ったのだ。』

(2012年2月17日 以下、『この著作の冒頭で、第一の錯覚についての諸帰結を示した。』という部分についての考察、ほぼすべてを改めた。かならずしも間違っているとまでは言えないが、あまり的を射た解説でもないということが理由である。以前の記述は草稿を参照していただきたい。)

さて、先ほど言った『この著作の冒頭で、第一の錯覚の諸帰結を示した。』はいったいどこであろうか?ごく簡単に言ってしまえば、第一章全体であろうが、その内容をまず振り返ることにするなら、

『実在論と観念論との間に、更におそらくは唯物論と唯心論のあいだにさえあるような未解決も問題は、従って、われわれによれば、次のような語彙で提起される。<一方の体系では、おのおののイマージュは独自に、周囲の数々のイマージュから現実的作用を受けるまさにその割合に応じて変化するのに対して、他方の体系では、すべてのイマージュが、ただ一つのイマージュに対して、それらがこの特権的なイマージュの可能的作用を反映する割合に応じて変化するとして、その場合どうして、同じイマージュがこれら相異なる体系双方に入り込むことができるのか>』(p.20 8行目-15行目、<>内はテキスト傍点付き)

と初めに象徴的に示唆されている部分になるだろう。もっと具体的には、この前節『現在は何に存するか』でも見てきたように、この錯覚は元はと言えば、『現在の感覚と純粋想起のあいだに、本性の相違ではなく程度の違いしか認めないことによる』(p.199 8行目-9行目)ことから、考察は展開されてきた。この前後の文章もできれば引用したいところだが、そこは読者諸氏にお任せし、実は、第一章の節『純粋知覚』にも同じような文言の文章があるのでそこを引用することにしたい。

『主要な誤り、心理学から形而上学に遡ることで遂には身体についての認識を精神についての認識と同様に覆い隠すに至る誤りは、純粋知覚と想起のあいだに本性の相違を見る代わりに、程度の相違しか見ないことに存する誤りである。』(p.82 15行目-17行目)

ほぼ同じ文言が並んでいることがおわかりいただけるであろう。この錯覚から得られる誤りは、以下、次節『物質の問題への移行』にまで及ぶ。しかし、節『物質の問題への移行』で書かれている部分は主に第四章に関係するものであるから、以下、上記引用を含めてこの後の文章を節『物質の問題への移行』の第一段落まで引用しようと思う。(読みやすさを考え適宜、文章を分けている)

『主要な誤り、心理学から形而上学に遡ることで遂には身体についての認識を精神についての認識と同様に覆い隠すに至る誤りは、純粋知覚と想起のあいだに本性の相違を見る代わりに、程度の相違しか見ないことに存する誤りである。われわれの知覚にはおそらく数々の想起がしみこんでいるが、逆に想起は、われわれが後で示すようにそれが差し込まれる何らかの知覚の体を借りることによってしか、再び現在的なものにはならない。それゆえ、これら二つの行為、知覚と想起は、内的浸透(endosmose)の現象によってたがいの実質のうちの何かをつねに交換することで、つねに混じり合っているのだ。とすれば、心理学者の役割は、これら二つの行為を分離し、各々にそれ本来の純粋さを取り戻させることであろう。そうすることで、心理学が提起する多くの問題が、そしておそらくは形而上学が提起する多くの問題も解明されるだろう。』(p.82 15行目-p.83 7行目)

『しかし、<現実は>全くそうではないのだ。純粋知覚と純粋想起が不均等な含有量で全面的に合成されている混合状態が、単純な状態であると主張されているのである。それによって、純粋知覚と同様に純粋想起をも無視することを余儀なくされ、また、これら二つの相のどちらかが優勢であるかに応じて、時に想起、時に知覚と呼ばれるただ一つの種類の現象だけしかもはや認識せず、ひいては、知覚と想起の間に、もはや本性の相違ではなく、程度の相違しか認めないことを余儀なくされる。この誤りは、その第一の結果として、後で詳細に検討するように、記憶の理論を深々と汚染している。というのも、想起をより弱い知覚にすることで、過去を現在から区別する本質的な相違を見誤るからであり、また、再認(reconnaissance)の現象、より一般的には無意識的なもの(inconscient)の機構を理解することを放棄するからである。』(p.83 7行目-16行目、<現実は>は筆者がわかりやすさのために挿入、またテキスト「時に想起時に知覚」の部分を「時に想起、時に知覚」と改変した)

『しかし、逆に言うと、想起をより弱い知覚にしたのだから、もはや知覚のなかにより強い想起しか見ることはできないだろう。あたかも知覚が、想起のようなやり方で、一つの内的状態のように、われわれの人格の単なる一つの変化のようにわれわれに与えられると推論することになるだろう。知覚の本来の根本的な行為、純粋知覚を構成するこの行為、それによってわれわれがただちに諸事物のなかに身を置く行為は見誤られるだろう。そして同じ誤りが、心理学においては、記憶の機構を説明することができないという根本的無力によって表され、形而上学においては、物質についての観念的な考え方と実在論的な考え方双方に深々としみこむことになるだろう。』(p.83 16行目-p.84 7行目)

『 物質の問題への移行

 実際、実在論にとって、自然の諸現象の不変の秩序は、われわれの諸知覚の一つのはっきりした原因のうちに存している。その原因が認識不能なものであり続けねばならないにせよ、形而上学的構築の(つねに多かれ少なかれ恣意的な)努力によってわれわれがその原因に到達するにせよ。反対に観念論にとっては、これらの知覚が実在の全体であり、自然の諸現象の不変の秩序は、それによってわれわれが、実在的な知覚のほかに、可能的な知覚を表現するところの象徴(symbole)でしかない。しかし、実在論にとても観念論とっても同様に、諸知覚は「正しい幻覚(2)」(hallucinations vraies)であり、主体の外に投影された主体の諸状態である。これら二つの学説はただ単に、一方においては、これらの状態が実在を構成するのに対し、他方においては、それらが実在と合流するようになるという点でのみ異なっている』(p.84 8行目-p.85 2行目、(2)はテキスト章末文献番号)

ここまでの引用には、次の文で出てくる『第二の錯覚』も含まれている(『より一般には無意識的なもの(inconscient)の機構を理解することも放棄する』の部分)けれど、ほぼ、ここまでで説明されてきたことによる『第一の錯覚の諸帰結』ほぼすべてをを網羅していると思う。

さて、やや第一章を振り返った部分長くなったが、第三章に戻り、次の文をみよう。

『第一の錯覚の補足たる第二の錯覚は、無意識を偽りの難解さで覆うことで、精神についてのわれわれの概念を汚染している』(p.212 4行目-6行目)

『無意識を偽りの難解さで覆う』とは、この段落でも見てきた『内的(諸)状態』が時間と無関係に『知覚』と照合・照会される、ということがあたかも想起が突然幽霊のようによみがえって来ることを指しているのだろう。このことは、たとえば、この段落では物質についての記述に『冷えたジュース』というように、主観的な形容をあたかも客観的であるように表現する傾向として説明してきた。

以降の文章では、ベルクソンはこれらについてこのように説明している。

『われわれの過去の心的生はその全体がわれわれの現在の状態を条件付けるのだが、それを必然的な仕方で決定することはない。』(p.212 6行目-7行目)

『われわれの過去の心的生は同じくその全体がわれわれの性格の中であらわになるのだが、にもかかわらず、過去のどんな状態も明白にわれわれの意識に現れることはない』(p.212 7行目-9行目)

以上の二つの引用は、賢明なる読者諸氏には説明しないでも分かっていただけるだろう。

そして、この段落では一旦こう結論づける。

『結びつけられることで、これら二つの条件は、過去の心理学的諸状態の各々に、無意識的ではあるが真に現実的な現実的存在を保証しているのである。』(p.212 9行目-11行目)

このことは、言い換えれば、この段落のはじめ、『<現実存在(existense)>』(p.210 4行目)について触れて言うときに、

『現実存在は二つの連結された条件を含意しているように思われる』(p.210 7行目-8行目)

『第一の条件は意識への現前化、第二の条件は、そのように呈示されたものと、それに先行するものならびにそれに後続するものとの論理的あるいは因果的結合である』(p.210 8行目-10行目)

とあったところの繰り返しであり、かつこの段落の説明の結論である。

長くなったこの段落のまとめとして、もう一度説明を繰り返すならば、『現実的な現実存在』を『保証』しているのは、『外的(諸)条件』と『内的(諸)状態』の結びつきをその量的なバランスによって、『無意識的』に『外的条件』へ『内的状態』が埋没したり、あるいはその逆であったりすることだ、とベルクソンは結論づけている、と言って良いのではないかと思う。そして、このことが、この段落最初にあった『経験に関する諸現象』と解釈しても良いだろう。

(2012年2月26日筆者注 上段落最後の一文を追加)
(2012年3月1日筆者注 上記段落の内容は、第四段落最後の部分、

『実際、この想起がわれわれの現在の状態に貼り付くことは、気づかれていない諸対象に貼り付くことに完全に比較することができる。そして<無意識>は、二つの場合いずれにおいても、同様の役割を果たしているのである』(p.208 17行目-p.208 3行目、<>内はテキスト傍点付き)

とあった部分の具体的説明に相当すると思われる)


では、続いての段落(p.212 12行目-p.214 9行目)を見ていこう。長くなったこの節の解説もこの段落が最後の解説となる。

この段落の最初の部分は、われわれの脳にどうして記憶が(脳のある部分と知覚される物体が対応する形で)蓄積されていると思うのか?という錯覚について述べられている。あまり難しい内容ではないが、ここは、たくさんの人が関心を持つであろうから、一応引用しておこう。

『しかし、われわれは、実践の最大の利益を得るために諸事実の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており、』(p.212 12行目-13行目)

『空間から引き出されたイマージュの脅迫(obsession)をあまりにも強く蒙<こうむ>っているので、われわれは、どこに想起が保存されているのかを問わずにはいられない。』(p.212 13行目-15行目:<>内は筆者によるふりがな)

一文を二つに分けたのは、前半部分を少し解説したいと思ったからである。この『諸事象の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており』というのは、以前見た、われわれが何かしようと思うときには、『物質空間』においては因果律に従わざるをえないために、『(純粋)想起』はそれがいつ起こったか、ということとは無関係になる必要がある、と説明したことに相当する。(テキストp.209 10行目-14行目、もしくはもっと遡れば、p.206  10行目-p.208  6行目など)

(2012年2月22日筆者注:上段落については、現段階で自信のあるものではないことを告白しておく。というのは、『逆転させることに慣れて』いるのは確かに想起であろうが、それが、以下に続く文のように、『物理-化学的な現象は脳<のなかで>起こり、脳は身体<のなかに>あり、………』と、接続するには少々無理がある。その間には少し説明が必要であるように思う。しかし、どのような解釈が可能かというとかなり恣意的な意見が入るだろう。従って個人的な解釈として次のような解釈を試みる。

まず、上記引用の後半部分

『空間から引き出されたイマージュの脅迫(obsession)をあまりにも強く蒙<こうむ>っているので、』(p.212 13行目-15行目:<>内は筆者によるふりがな)

ということから、『想起』も因果律に従って当然であると考えがちである。そうして、想起が一見無秩序に現れるように見えるということも、『想起』も因果律に従っている以上コントロールできて当然だと考える。従って、『どこに保存されているかを問わずにはいられない』という結果になる。

そして、先に出た、『実践の最大の利益を得るために諸事実の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており、』の部分は、例えば、こういうことだろう。以前にも例があったが、われわれが、いま居る部屋から出るには入ってきた時と逆の順序で道をたどるだろう。それは、『想起』の時間の流れを逆転させることに他ならないだろう。それは『想起』が物理的な因果関係とは無関係であり得るからである。そのように、われわれは物理的な因果関係や時間による順序を逆転させることにあまりにもなれている、ということではないかと思われる。)

続きをみよう。

『物理-化学的な現象は脳<のなかで>起こり、脳は身体<のなかに>あり、身体は身体を浸している空気の中にある等々と、われわれは思い描いている』(p.212 15行目-16行目:<>内はテキスト傍点付き)

『しかし、ひとたび成就された過去が保存されているとすれば、この過去はどこにあるのか。』

と続く。これから先は、はじめに述べた通りなのだが、結構長い。簡単に要点だけを見ようか。

まず、われわれは、『脳の<なかで>』起こる『物理-化学的』な『分子変化(modification mole'culaire)』として、『脳実質に置く』と考えるだろう。(p.212 17行目-p.213 2行目)

『脳』という『現実に与えられた貯蔵庫』に過去に起きたこと、その『知覚』を『イマージュ』として保存しておけば、いつでも取り出せると思うだろう。(p.213 2行目-4行目)

しかし、ベルクソンは、このことによって様々な錯覚が生み出される、ということをここから主張し始める。ここから先のこの段落の構成はかなり複雑だ。

『忘れられているのは、容器と中身の関係が、その見かけ上の明晰さと普遍性を、前方ではつねに空間を開き、後方ではつねに持続を閉ざさなければならないというわれわれの陥った必然性から借りていることだ』(p.213 5行目-8行目)

ここでは、要するに、『脳』にすべての記憶が保存されているという考え方は、わかりやすくて普遍性もあるように思えるけれども、その考え方は、前にも述べた、何かをするときには『(物質)空間』を順を追って動く必要があり、『(純粋)想起』は、その起こった順番や時間とは切り離される必要がある、ということを言っている。

ここでは、いったん意味的にここで区切られ、このあと指摘するのは、

『ある事物が別の事物のなかにあるのを示したからといって、それによって、前者の事物の保存という現象を明らかにしたことには少しもならない』(p.213 8行目-10行目)

『それだけではない。さしあたりは、過去が脳に蓄えられた想起の状態で生き続けてると認めておこう。そのとき、脳は想起を保存するためには、少なくても脳そのものが保存されていなければならないだろう』(p.213 10行目-12行目)

という。ここまでは、解説なしに読めるであろう。

(2011/06/28 以下、説明がやや不十分で、第三章第七節の解説に書いていることの方が正確である。あとで、第七節に書いた部分を第三節に統合し、またこの部分の解説をより詳しくすることを検討する必要がある

2012/02/23筆者追記  第七節での検討も、現在読み返すと余り正確でないところも散見される。以下の部分はここで改めて検討し直し、第七節の記述は改めて、必要な部分を残し、誤りは記述し直すなどの対応を取ることにする)

このあとの文(p.213 12行目-p.214 1行目)自体は難しくないし、ベルクソンの書き方はやや煩雑なので要約し解説する。

われわれの人生に置いて脳が連続してこの『物理空間』上に存在するとすれば、われわれの記憶も、少なくてもわれわれが生きてる間はわれわれの脳に保存されているとしても良いだろう。しかし、すでにこの節の冒頭(p.202 2行目-8行目)で見たように、一般的にわれわれは、意識をわれわれの『心理状態の本質的な特性』と考えており、『心理状態は、意識的なものをやめると必ず存在することをやめるだろう』と考えている。

また、『この脳は空間内に広げられたイマージュである限り、もっぱら現在の瞬間を占めるにすぎない』(p.213 12行目-p.213 13行目)

(2012/2/23筆者注  上記引用文を追加)

では、われわれの『意識』は途切れる、ということを前提にしているのに、あなたは『物質空間』がとぎれないということをどうして保証するのか?

そのためには次のような事を想定しなければならなくなるだろう。まず、意識が途切れ、また意識が戻る時に、すなわち、すべての人の意識にとってということになれば、『この宇宙が紛うことない奇跡によって、持続のあらゆる瞬間に滅びては甦るということ想定しなければならない』(p.213 14行目-p.213 16行目)ということになるか、

もしくは、『あなたが意識に認めていない現実存在の連続性を宇宙に移し替え、宇宙の過去をも、その現在のなかで生き続け、そこへと引き延ばされる一つの実在たらしめなければならない』(p.213 16行目-p.214 1行目)。言い換えれば、意識には認めていないが、宇宙は現実存在しておりかつ持続のなかで連続であること、そして、意識を宇宙の物理的存在として移し替えたのであるから、われわれの過去も、宇宙の過去のなかに存在するということを認めないといけないではないのか?

(2012/2/23筆者注  上三段落追記)

というのが、ベルクソンの批判である。

一方で、ベルクソンは、自身の仮説で、

『意識が、<現在>の言い換えるなら現実に生きられたものの、更に言い換えるなら、要するに<行動するもの>の特徴にすぎないとするれば、そのとき、行動しないものは、たとえそれが意識に属することをやめるとしても、必ずしも、何らかの仕方で存在することはやめずにいられるだろう』(p.202 4行目-8行目)

と言っているので、この節では明示してないがこのために、われわれの記憶も連続して存在するということを保証している、と考えているのであろう。

元に戻ろう。

ベルクソンが『意識』が存在しなくなることを前提としていて、どうして、『物質空間が』が連続した時間のなかでとぎれることなく存在することを保証できるのか(もしくは、誰かの意識がなくなると同時に無くなり、しかし、他の誰かの意識に上がると同時に奇跡的に復活するのか)、と疑問を呈しているということはすでに説明した。
(2012/2/23筆者注  上記段落(もしくは、.........復活するのか)を追記)

ベルクソン自身がこのあとまとめているので見てみよう。

『それゆえあなたは、想起を物質のなかに蓄えても何の得にもならないだろうし、反対にあなたが心理学的状態に認めなかった過去の独立した全面的な残存を、物質界の諸状態へ拡張されるのを余儀なくされる』(p.214 1行目-4行目)

つまりは、『意識』がわれわれの『心理状態の本質的な特性』と考えること自体に無理があると言っているわけだ。

ここで一区切り付けられ、このあと、ベルクソンは先の、

『忘れられているのは、容器と中身の関係が、その見かけ上の明晰さと普遍性を、前方ではつねに空間を開き、後方ではつねに持続を閉ざさなければならないというわれわれの陥った必然性から借りていることだ』(p.213 5行目-8行目)

までで、一旦意味的に区切られた部分について、再び述べられ始める。

見ていこう。

『過去の<それ自体としての>残存は、それゆえ、どちらの形であれ不可欠のものとして課せられるのだが、あなたがこの残存を思い描くのに感じる困難さは、<含むことと含まれること>の必要性 -これは空間内で瞬時に見いだされる諸物体の全体にしかあてはまらない- をわれわれが時間のなかの想起の系列に付与することに由来している』(p.214 4行目-7行目:<>内はテキスト傍点付き)

(2011/06/28 この部分は唯物論においても過去は全面的に保存されるということを意味していることを第三章第七節の解説において書いている。

2012/02/23追記 先の追記で述べたように第三章第七節は修正を考えている。また、唯物論においても、過去の全面的保存が主張されるのは間違いないが、ここで、それを主張しているというのはすこし、考え過ぎかもしれない)

つまり、『想起』が順番どおりに『脳』のなかに記憶されると考えてしまうことが問題だ、と指摘してるのであろう。

こうして、やや曖昧な記述のまま、この節の最後の文章を迎える。つまりは、このことが、次の節のテーマになるのだろう。

『根本的な錯覚はわれわれが持続に施す瞬間的な切断面の形を、過ぎゆく持続そのものへと移し替えることに存しているのだ。』(p.214 8行目-9 行目)

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