ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年3月1日木曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (中)


ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その3 第三節 無意識について (中)

次の段落(p.205 15行目-p.206 9行目)に進もう。

最初の数行は、もう一度、ケーキを装飾するクリーム絞り器のたとえを使って説明したい。

口金の出口の部分が意識だとしたときに、飾られる側のケーキは、『われわれがこれから知覚するものを表象している』(p.205 16行目−17行目)と考えられる。

一方で、クリーム絞り器の中にあるクリームは、『すでに知覚されたものだけ』(p.205 17行目−p.206 1行目)のはずである。

『ところで、過去はわれわれにとってもはや利害を有していない』(p.206 1行目)

少し省略して、

『反対に、直接的未来は、差し迫った行動のうちに、まだ費やされていないエネルギーのうちに存する』(p.206 3行目−4行目)

蛇足ながら、この文の解釈は、『直接的未来は』、『行動』と『エネルギー』のどちらかかどちらか両方のうちにあるというのが正しいと思う。

この段落は、ここからあとの文章が、一文が長くかつ難解である。

まず、

『物質的宇宙の知覚されていない部分は、数々の見込みと脅威に満ちていて、それゆえ、われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性をわれわれに対して有している。』(p.206 4行目−7行目)

は、とりあえず、

『物質的宇宙の知覚されていない部分は、数々の見込みと脅威に満ちていて、』(p.206 4行目−5行目)

『それゆえ、われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性をわれわれに対して有している。』(p.206 5行目−7行目)

とに分けてみたい。そうすると前半分の方は特に難しくはないのが分かるだろう。

後半部分、とくに、

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性』(p.206 5行目−7行目)

の解釈が難しい。ひとまず、この部分をおいといて、最後の、

『われわれに対して有している。』(p.206 7行目)

の主語を考えよう。そうすると、これは、明らかに、

『物質的宇宙の知覚されていない部分は、』(p.206 4行目)

であろう。

残るは、

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない実在性』(p.206 5行目−7行目)

の部分の解釈だが、

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない』(p.206 5行目−6行目)

が、『実在性』(p.206 6行目−7行目)を修飾し、引用文の主な骨格としては、

『物質的宇宙の知覚されていない部分は(主語)、(中略)実在性を(目的語)われわれに対して(目的語)有している(述語)。』(p.206 4行目−7行目)

と考えていいのではないかと思う。

さて、残るは、『実在性』を修飾している

『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間が有しえず、また有することがあってはならない』(p.206 5行目−6行目)

の部分であるが、これがまた難解である。しかし、これは、ざっくりと『純粋想起』と捕らえて良いと思う。つまり、意識が認識できるのは、先に挙げたたとえで言うと、口金にあるクリームであろうから、それより奥にあるクリームは認識できない。そのことを『現下には認識されざる』と言っているのだと考えると『過去の生存のうち』も『(純粋)想起』のことを言っているのだな、と見当がつくだろう。したがって、『過去の生存のうち』を『(純粋)想起』全体の中で、と捕らえることができ、『現下には捕らえることができない諸期間』というのは、意識に捕らえられていない部分、言い方を変えれば、思い出すことによって『イマージュ』となっていない『(純粋)想起』を言っているのだろう。

そうすると、『有しえず、また有することがあってはならい』というのも、『(純粋)想起』はただの情報でしかないというこれまでの主張と何ら変わらないということが分かる。

さて、ここまで来れば、難解だったこの一文も、単に、『物質的宇宙の知覚されていない部分は』、『(純粋)想起』にはない『実在性をわれわれに対して有している』。というのが、大まかな意味だというのが分かっていただけたであろう。そして、そこには『数々の見込みと脅威に満ちている』ため、という、ある種の非常に情緒的な理由が挙げられている。

最後の文をみよう。

『しかし、この実利的な有用性や生活の物質的欲求とまったく相対的なこの区別は、われわれの精神の中では、ますますはっきりした形而上学的な区別の形を取るのである』(p.206 7行目−9行目)

『区別』ということさえはっきりさせれば、一見難解と思えるこの文も、意味がはっきりする。『区別』とは、前文における『物質宇宙の知覚されていない部分』と『われわれの過去の生存のうち現下には認知されざる諸期間』の区別であり、少し遡れば、『過去』(p.206 1行目−2行目)と『直接的未来』(p.206 3行目)の『区別』であるということが分かる。蛇足ながら『過去』はここでは『純粋想起』に置き換えられることは、賢明な読者には自明のことであろう。

『区別』が何かがはっきりしたので、この文の解釈を簡単にまとめると、『直接的未来』は、『数々の見込みと脅威に満ちている』ために、『実在性』をもち、われわれの『過去』、ここでは、ただの情報である『(純粋)想起』は『有しえず、また有することがあってはならない』ということを、一つ前の引用文でベルクソンが書いているのを見たが、それらの『区別』は、『実利的な有用性や生活の物質的欲求とまったく相対的』な『区別』であるにもかかわらず、『われわれの精神のなかでは、益々はっきりした形而学的な区別の形をとる』とベルクソンは指摘している、ということになる。

そして、このことが前の段落でベルクソンが述べていた、

『その際、時間は、時間において継起する諸<状態>を次第に破壊していくのに対して、空間はそこに、並置されている諸<事物>を限りなく保存するように思われる』(p.205 7行目−10行目:<>内はテキスト傍点付き)

という、『錯覚』の『いくつかの本質的な点を指摘する』(p.205 14行目)と述べていたうちののうち、少なくても一つの『指摘』ということになるだろう。


では、次の段落(p.206 10行目−p.208 3行目)を見てみよう。ここでは前段落で示された『指摘』の詳しい説明となる。まず、はじめの部分を引用する。

『実際、すでに示したように、われわれの周りに置かれた諸対象は、われわれが諸事物に対して実行できる作用、あるいはわれわれが諸事物から被らなければならいだろう作用を、様々な程度で表象している。』(p.206 10行目−11行目)

最初の、『実際、すでに示したように』とは、二つ前の段落にもあった『この著作の第一章のなかで、われわれが客観性(objectivité)を扱ったときに行われた』(p.205 10行目−12行目)と同じことを言っているのであろうと思う。引用のその後の部分はあまり難しくはないだろう。内容のより具体的記述は、このあとに述べられているので、順次説明していきたい。
(興味のある方は、p.31 10行目−12行目の傍点部『知覚は行動が時間を自由にするのとちょうど同じだけ空間を自由にするのだ。』あたりが、相当すると思われるのでそのあたりを参照していただきたい。)

(2012年2月14日筆者注: 引用文と説明の順番を入れ替え説明文をさらに付け加えるなどの編集をした)

このあとの数行を、簡単に要約すると、先の段落で述べていた『直接的未来』の『脅威』ということについて、『未来』と『空間』との直接的つながりを陳べ、わかりやすく説明している。たとえば、

『空間における距離は、時間における脅威あるいはその見込みの近さを測り示している。』(p.206 13行目−14行目)

『それゆえ空間は、われわれの次なる未来の図式をわれわれに、このように一挙に与えている。』(p.206 14行目−15行目)

というように。

そして、われわれ人間にとって時間は無限に未来方向に続くわけと考えてもよいわけだから、『未来を象徴化している空間は』(p.206 16行目)、時間と同様に無限に広がっている(テキストでは、『その不動性において、無制限に開かれたままである』(p.206 16行目−17行目))ことを『特性としている』(p.206 17行目)。

と、いうことになるために、われわれは、知覚できる範囲という『圏(circle)』、それを含む、知覚できないが存在しているであろう『圏』、されには、それを含むであろう『圏』というような想定を無際限に繰り返し、そのことを矛盾のないことと見なす。

『したがって、それが延長である限り、われわれの現在の知覚は、それを内包するより広大で、無際限でさえある経験に比してつねに<含まれるもの=内容(contenu)>でしかないことを本質としている』(p.207 3行目−5行目、<>内は傍点付きとイタリック)

この引用において、『経験』というのが何を示すか具体的には難しいが、いわゆる科学を、哲学では、「科学的経験論」と呼んだりするが、このような、いわゆる、無限の内包関係をもち広がる圏のなかで現在という瞬間に生じている物理学的な法則に支配されて起るようなな事象のことを『経験』と言っているのではないかと思われる。

(2012年2月11日筆者注:『経験』についての解釈を変更した)

『この経験は、認知された地平をはみ出しているのだからわれわれの意識にとっては不在なのだが、それでも現実に与えられているように見える』(p.207 6行目−7行目)

と続く。『認知された地平をはみ出して』いるような『経験』ということだから、この『経験』をわれわれが感知することがない場所で発生しているはずの物理現象と捉えても矛盾しないと思う。

(2012年2月29日筆者注 上記段落の表現を変更)

さて、このように『物質的対象』(p.207 7行目−8行目)は、われわれの『知覚』できない部分であっても、強大な影響力を持っているとわれわれは感じる(ベルクソンの言葉で言えばわれわれはそれらに『引っかかってるように感じる』)ために、われわれは『それらを現存する実在と仕立て上げる』のに対し(p.207 7行目−9行目を要約)、

『反対にわれわれの想起は、過去のものである限り、われわれが自分と一緒に引きずっている足手まといであり』(p.207 9行目−10行目)

つまりは、なかったものとして考えたい、ベルクソンの言葉で言うと『解放されたふりをする方を好む』(p.207 10行目−11行目)わけである。

次の一文は『それによって』が難しいが、文の内容はこれまでの繰り返しなので、詳しい説明は省き、『それによって』は『本能』と等しいことだけを指摘しておく。

『われわれがそれによって自分の前に空間を無制限に開くところの本能とおなじ本能ゆえに、われわれはわれわれの後ろで、時間が過ぎ去るにつれて時間を閉め出す』(p.207 11行目−12行目)

(2012年2月14日筆者注:上記引用文を挿入)

次の行をみよう。そこには同じ内容の繰り返しがあり、ここまでのまとめが書かれている。

『実在は、延長である限り、無限にわれわれの知覚をはみ出しているようにわれわれには見えるのだが、反対に、われわれの内的生のなかでは、現在の瞬間と共に始まるものだけが実在的であるようにわれわれには思われ、その他のものは事実上消滅させられている。』(p.207 12行目−15行目)

長い文であるが、内容、構成は難しくはないだろう。一応、説明をしておくと、『実在』すなわち、『空間』に広がる『物質的存在』は、無限の内包関係のなかにあるようにわれわれには思われる。そのために、『無限にわれわれの知覚をはみ出しているようにわれわれには見える』。一方、『内的生』における『実在性』は、われわれには未来方向へ無限に続くと思える『現在の瞬間』において『知覚』しうる『経験』(p.207 5行目)だけが、『共に始まる』ものだけだ。その他、つまり、『直接的未来』(p.206 3行目)に関係しない 『われわれの想起』(p.207 9行目)などは、『事実上消滅させられている』と、言い換えることができるだろう。

(2012年2月12日筆者注、上記段落「われわれには未来方向へ無限に続くと思える『現在の瞬間』において『知覚』しうる『経験』(p.207 5行目)だけが、」の部分、草稿から一部表現を変えたが、意味的にはかなり変わっている)

だから、われわれには、『想起が意識に再び現れるとすれば、幽霊のような印象』となり、そのことを、さまざまな『特殊な要因』をもって説明する(p.207 15行目−17行目を要約)

さて、この段落の残りは、次の段落への投げかけになっているので、単に引用だけして、一旦、この段落の説明を終わりたい。

『実際、この想起がわれわれの現在に貼り付くことは、気づかれていない諸対象がわれわれの知覚している諸対象に貼り付くことに、完全に比較することができる。そして<無意識>は、二つの場合いずれにおいても、同種の役割を演じているのである。』(p.207 17行目−p.208 3行目、<>内はテキスト傍点付き)


次の段落(p.208 4行目−p.210 3行目)をみよう。

この段落は、こう始まる。

『しかし、われわれはそのように事象を表象することに非常に苦労を感じる』(p.208 4行目)

これは、まず、われわれの『錯覚』(p.205 10行目)についてまた一つ述べる、ということであり、その『錯覚』を述べることによって前段落の終わり(p.207 17行目−p.208 3行目)で述べられたことを説明する、ぐらいの意味だと取っておいて良いだろう。

さて、実際は、前段落の終わり(p.207 17行目−p.208 3行目)で述べられたようにあることを、『苦労に感じる』のか?それは、先に要約して言うと、知覚できる空間において、短い時間で変化するものは、『差異を強調し』、ゆっくりとしか変化しないつまり『類似』は『目立たなくする習慣を付けてしまったからだ』とベルクソンは言う。引用しよう。

『空間の中に同時的に並べられた諸<対象>と、時間のなかで継起的に展開された諸<状態>との差異を強調し、反対に類似を目立たなくする習慣を付けてしまっているからだ』(p.208 4行目−6行目:<>内はテキスト傍点付き)

言い方を変えれば、単位時間において、空間内の変化が急であるもの(『差異』)に対しては、われわれの知覚は敏感に反応するのに対し、わずかしか変化しないもの、ベルクソンの言葉で言うと『類似』のものに対してはあまり、反応しようとしない。

このことは、ベルクソンによると『習慣づけている』というが、われわれの視覚はすでにそのようなメカニズムになっているというのが、現代では分かっているが、しかし、訓練しだいでは、逆のことができるので、『習慣づけている』と言っているのであろう。

このような見方をすると、逆に、なぜ、訓練次第では、視覚のメカニズムに対して、逆のこともできるようになるか?という疑問も当然出てくるだろう。つまり、われわれは、目のメカニズムに従うことを『習慣づけている』わけである。

続きをみよう。

『前者において、諸項は完全に決まった仕方でお互いを条件付けており、』(p.208 7行目)

とあるが、これは、『前者』と『諸項』が何を指すかが問題であるだろう。

『前者』は『空間の中に同時的に並べられた諸<対象>』(p.208 5行目−6行目)であり、『諸項』は、『諸<対象>』と同じである。なぜ、『諸項』という言い方かというと、ここでは、このあとの文で、

『その結果、各々の新たな項の出現は予測されることができた。』(p.208 7行目−8行目)

続くことから、やや深読みした解説をすると、『予測されることができる』のは、一般に、科学の法則に従う場合であり、科学の法則は、再現性といって、誰がいつやっても同じ結果になる、ということが保証された法則のことだ。ここでは、物理学の法則と言っても良いだろう。

『空間の中に同時的に並べられた諸<対象>』(p.208 5行目−6行目)、『完全に決まった仕方でお互いを条件付けて』(p.208 6行目)などの言い方から判断すると、当然『諸<対象>』は、一般に、物質全般であり、いわゆる「物」である。それは物理学の法則で支配されているために予測可能だ。物理学の世界は、「物」は、計量できる『諸項』の関係性で表現可能な世界あるから、特に、物理学の法則で支配されていると言うことを強調するために『諸<対象>』を『諸項』と言ったり、われわれが普通に「物」と言ってるものを『項』と言っているのであろう。

それゆえ、われわれは、どこかへ行こうとするときに思い浮かべた道を通ればいい。直接知覚できなくても物理的に質量の大きい道が急になくなったりはしないというのはその性質上分かっている。

(2012年3月1日筆者注 上の段落、あとの文を付け加え、『しかし、』を次の段落の初めになるように切り離した)

しかし、

『反対に、私の想起は見たところ気まぐれな順序で現れる。』(p.208 9行目−10行目)

このあと、

『それゆえ、表象の順序は一方では必然的であり、他方では偶然的であって、(以下文末まで略)』(p.208 10行目−12行目)

と続く。

(2012年2月29日筆者注 上『続く。』以下削除)

以下、このことの詳細な説明となる。順番に見ることにしよう。

『知覚せざる諸対象の全体が与えられていると想定することに私が何の不都合も覚えないのは、』(p.208 12行目−13行目)

要するに、それらが物理法則に従うと考えているからで、物理法則は完全に原因があって結果があるという、因果律であるので、

『これらの対象の厳密に定められた順序がそれらにさらに一つの連鎖の様相を与えており、』(p.208 13行目−14行目)

『私の現在の知覚はもはやその連鎖の一つの環でしかないからだろう。』(p.208 14行目−15行目)

ここまでをまとめると、われわれの知覚というのは、因果律である物理法則が支配することが当然と一般に考えられている無限の内包関係もつ空間の一部の作用であるということをわれわれは、常識としてわきまえているからだ。言い換えれば、すなわち、物理世界は因果律に支配されていることはわかりきったことであるので、知覚はその一部しか受け取らずとも、『知覚せざる諸対象の全体が与えられていると想定することに』、われわれは、『なんの不都合も覚えない』ということであろう。

(2012年2月14日筆者注 草稿の上記段落部分は、記述がわかりにくいと思われたので、すべて記述を改めた)

『しかし、仔細に眺めるならば、われわれの想起も同種の鎖を形成しており、われわれのあらゆる決定につねに随伴するわれわれの<性格>なるものも、まさにわれわれの過去の状態すべての現実的総合であるのが分かるだろう』(p.208 15行目−17行目:<>内はテキスト傍点付き)

この、われわれの想起及び性格の記述は、特に、性格については、納得できない人もいるだろう。ベルクソンの主張においては、われわれの『意識』が『知覚』を受け取ったときの行動は、もっぱら『純粋想起』に従って行われる、というのはこの章でも見てきたとおりである。そして、前章によると、『純粋想起』は『身体の論理』によって曖昧さを許さないところまで分解され、レコードの溝のように記録されているのであり、意識は、無意識が、現代コンピュータのようにパイプラインに並べた、『純粋想起』を現在の瞬間において処理し続けていく、と言うことであったことを思い出して頂きたい。そこに性格というものがあるとベルクソンは考えている解釈できるのではないだろうか。

(2012年2月29日筆者注 上記段落、最後の一文を追加)

余談だが、ベルクソンには笑いについて書いた著作がある。笑いについて、ベルクソンの主張は、それが、連続から不連続に移るときに起こると主張し、これこそが、人間の人間たる理由であると主張していると記憶している。余談終わり。

さて、続きであるが、

『このような凝縮されたかたちのもと、以前のわれわれの心的生はわれわれにとって外的世界より以上のものとして存在しさえする』(p.208 17行目−p.209 2行目)

なぜなら、知覚は、光円錐の未来側として説明したようにわれわれの受け取るものはごく限られているのに対し、われわれの無意識は知覚に対応して、それこそ、無意識のうちに、受け取った知覚に対するさまざまな純粋想起とのあいだの膨大な照会・照合の処理をしているわけであるから、すなわち、われわれの記憶(=過去)全部を使っている、と言い換えても良いだろう。(p.209 2行目−3行目を要約・解説)

以下、このことについての詳しい説明がなされている。特に難しいところはないようなので要約すると、われわれの記憶は、要約された形で保存されていて、過去に知覚された部分については、すべて破棄されているか気まぐれに出現するようにわれわれには見える。(p.209 3行目−7行目)

(2012年2月14日筆者注 上の段落は二段に分かれていた部分を一つの段落にした。
 2012年2月29日追記 また後半部分の内容をテキストに沿う形で書き改めた)

『しかし、この完全な破壊あるいは気まぐれな甦りの外見は、現在の意識が各瞬間に有益なものを受け取り、余計なものを一時的に閉め出すことに由来する。』(p.209 7行目−8行目)

以下、先に要約して述べると、役に立つ記憶だけが『意識』によって活用される、ということを書いてあるのだが、そのためにいろんな現象も起きることによって、上に述べたような『知覚』の記憶についての錯覚も起きると説明できる、と続く。やや、難しい表現もあるので、順を追って見ていこうと思う。

『つねに行動へと向けられたわれわれの意識は、われわれの古い諸知覚のうち、最終決定に協力するために現在の知覚と一緒に組織されるものだけを物質化できる。』(p.209 8行目−10行目)

上の文の『われわれの意識』についての『つねに行動へと向けられた』という修飾は、この章で見た『感覚‐運動的』な『現在』をあつかう『意識』の働きであろう。そう考えると、『われわれの古い諸知覚』は、『イマージュ想起』ではなく、ここで扱っている『想起』は、これまでどおり『純粋想起』と考えるべきなのだろう。『知覚』の『物質化』も、いわゆる、「思い出す」と言う過程の中で神経回路の興奮によって『物質化』されると考えてきたのだから、つじつまは合う。従って『最終決定に協力するために一緒に組織される』という部分も、第二章で見た『注意』の働きではなく、『無意識』が、結果として『感覚‐運動的』な処理を司る『意識』のために用意したものなのである。

(2012年2月29日 二段落削除)

さて、続いて、次の行。ここも難しいが、上述のようにここでは、『感覚‐運動的』な『意識』についての記述であるとふまえておけば、少しはわかりやすくなるだろう。

『私の意志が空間の一定の点に現れるために、私の意識は、全体で<空間における距離>と呼ばれるものを構成している数々の中間物あるいは障害物を一つ一つ超えなければならないのだが、それに反して、この行動を照らし出すためには、現在の状況を以前の類似した状況から隔てている時間の隔たりを飛び越えることが私の意識にとって有益である。』(p.209 10行目−14行目:<>内はテキスト傍点付き)

実は、よく見ると、そんなには難しくない。表現の仕方がややこしく、一文が長いだけだ。見てみよう。

『私の意志が空間の一定の点に現れるために』が戸惑う表現だが、ごく簡単に、「われわれが何かをしようとすると」で良いだろう。いまは『感覚‐運動的』な『意識』を扱っているとだけ、気をつけておけばいい。そうすると、あとはごく簡単で、「何か行動しようと思ったら、障害物は避けないといけないけれども、そのとき、われわれの『純粋想起』は、その記憶を経験した時期とは無関係に思い出されるようになっていないとわれわれは何もできないだろう」、という程度の意味だということがお判りいただけるだろう。

このような、われわれにとってごく当たり前のことが、ベルクソンの指摘によって、重要な意味を持っているというとを改めて認識させられる。ここが、この段落のクライマックスである。

『私の意識はこのように、以前の類似した状況にひと飛びで身を移すのだから、過去の中間部分はその全体が私の意識の手から逃れている。』(p.209 14行目−16行目)

およそ意味はおわかりであろうが『過去の中間部分』というのは、『ひと飛び』で飛び越えられた部分ということで良いと思う。空間内の行動と違って『感覚‐運動的』である『意識』は想起の順序を追わないということを強調しているのだ。

以下の行は、ここまで分かると難しくないと思うので解説を省略しよう。内容も上記引用文とほぼ同じである。あとで必要になったら、また改めて引用することにしたい。

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