ベルクソンの「物質と記憶」を中心に、心脳問題について、過去にmixiで書いた文章を推敲し直して載せています。

テキストは、アンリ・ベルクソンの「物質と記憶」第2刷(ちくま文芸文庫版、合田 正人、松本 力訳)を使っています。『ベルクソン「物質と記憶」メモ』と記事のタイトルにあるものの引用文のページと行はこのテキストのものです。


2012年2月29日水曜日

ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その2 第二節 現在は何に存するか



ベルクソン 「物質と記憶」メモ その4 記憶と精神 その2 第二節 現在は何に存するか

今回は、第三章第二節『現在は何に存するか』(p.198 2行目-p.201 13行目)について、段落ごとに解説します。

早速、本題へ。

第一段落(p.198 3行目-p.199 7行目)は、前節の終わり『私の現在は本質からして感覚-運動的なものである』(p.198 1行目)を受けて、こう始まる。

『ということはつまり、私の現在は、私が私の身体に有している意識のうちに存するということだ』(p.198 3行目-4行目)

以下、数行要約すると、われわれの肉体の直接直近の過去に相当する『感覚』と同じく直接直近の未来の『運動』を結びつけているのはわれわれの肉体であるので、『ある決まった瞬間には、運動と感覚のただ一つの体系<システム>だけしか存在できない』(p.198 6行目、<>内はテキストフリガナ)

『そういうわけで、私の現在は、私には、完全に規定されたもの、私の過去と際だった対比をなすものとして私に現れる』(p.198 7行目-8行目)

ということになる。以下、数行要約すると、あくまでも物理的な法則に従う世界におかれた『私の身体』は、われわれの一人一人の『行動の中心であり』、『受け取られた諸印象』は、われわれ一人一人が適切だと考えて選択する『運動』を統合したものである『行動』へ、と変化していく。

まさに、『私の身体』という現存在こそがわれわれの現在であり、より一般的には時間の流れのなかでの現在という切断面である。以下、若干難しい表現もあるので、解説の必要もあるために引用すると、

『私の身体は、(中略)まさに私の生成の現在の状態、私の持続のなかで形成途中を表している』(p.198 10行目-11行目)

これは、単純に考えて、『私の身体』は、『私』という過去から未来においてある一定の期間存在し続けるものにおいて、まさに、現在を表す、という意味にとって良いと思う。

ここで、少し遡って見てみよう。『感覚』が過去、特に、現在の『知覚』受けて『純粋想起』か引き起こされるもの、と想定してもいいだろう。というのは、前節の最後の段落において、直接過去は『感覚』とほぼ等しいと説明している(『直接過去とは、知覚されたものである限り、われわれがやがて見るように、感覚である』p.197 11行目-12行目)。

また、その前の段落の終わりには、『われわれが「純粋想起」(souvenir pur)と呼ぶものを現在の知覚と対比させるだけでも、われわれはすぐに「純粋想起」の本性をよりよく理解するだろう』(p.196 7行目-9行目)とある。

(2012年2月28日筆者注 上段落は草稿では一つだったものを二つに分けて若干表現を変更した)

このことが、さきほどの引用の『私の身体』が『私の生成の現在の状態』とか『私の持続のなかで途中形成のもの』を表している、と言う表現につながっているのだろう。もっと大胆に言えば、『私』は私の記憶そのものだ、ということになるかもしれない。しかし、いま、そこまで考えずとも、現段階でベルクソンの言いたいことはお判りいただけたのではないかと思う。

さて、このあとの行を見てみよう。

『より一般的には、実在そのものである生成のこの連続性において、現在の瞬間は、流れつつある塊のなかにわれわれの知覚が作り出すほとんど瞬間的な切断面において構成されており、この切断面こそがまさにわれわれが物質界と呼ぶものである。』(p.198 11行目-14行目)

『われわれの身体はこの切断面の中心を占めている』(p.198 14行目-15行目)

以上の引用は、まず、言葉で説明するより図4(p.218)や図5(p.232)を見てもらう方がわかりやすいだろう。これらは、光円錐の未来側とほぼ同じ考えの図である。違うのは、規定されているのが、光の速度か『知覚』が将来の時間ににおいておよぶ範囲かどうか、であろう。




たとえば、図4(p.218)においては、平面Pが『われわれの知覚が作り出すほとんど瞬間的な切断面』に相当し、点Sが『この切断面の中心』である『われわれの身体』となるだろう。

特殊相対性理論は、完全に物理学の理論であるために0という大きさの時間である現在を想定し考慮することが可能であるが、ここでは、どうしても微少の反応時間が必要な『われわれの知覚』が時間の切断面を作り出すわけであるから、表現としてはどうしても『ほとんど瞬間的な切断面』という、やや曖昧な表現になる、ということだけを注意しておけば良いだけで他に難しい表現はないだろう。

以下数行、われわれの肉体こそが、われわれに物質世界においての現在をまさに示している、ということが書いてある。そこから、少し引用しよう。

『物質は、空間の延長である限り、われわれによれば、絶えず繰り返される現在と定義されなければならない』(p.199 1行目-2行目)

(2012年2月29日筆者注 このことに関しての具体的な考察はこのあとの第三節で行われる)

『逆にわれわれの現在は、われわれの現実存在(existstence)の物質性そのもの、すなわち感覚と運動の全体であり、それ以外の何者でもないのだ』(p.199 2行目-4行目)

ここで、我々の現在とは我々の物質的な存在である身体の物質性にほかならない、とベルクソンは断定していると言えるだろう。

(2012年1月21日筆者注:一行削除、一行追加)

このあとの数行は、大事ではあるが、表現には難しいところがないので簡単に要約すると、われわれの現在は、われわれの身体が規定する『感覚-運動』のシステムに基づいて行動する。しかし、その結びつきは、一度きりのものであり、途中出てくるベルクソンの言葉で言えば『唯一無二』のものである。

『それはまさに、感覚と運動が空間の場所を占めていて、同じ場所に同時にいくつもの事物が存在することはできないからだ』(p.199 5行目-6行目)。

これも、ベルクソンのこれまでの主張から論理的に導き出される、ベルクソンの哲学のもっとも大切な考えの一つであろう。つまりは、われわれの人生は一度切りのものなのである。

(2012年1月21日筆者注:上三段落は元は一段落であったが、引用文を入れ、そのために3つに分けた)

さて、この段落は、次の問いかけを持って終わる。

『—どうして、結局は常識に属する考えにほかならないこれほど単純でこれほど明らかな真理を、見誤ることができたのだろうか』(p.199 6行目-7行目)

(2012年1月21日筆者注:この段落を終えての後書きを削除。論自体は興味深いところもあり、またイマージュは大変重要な概念であるが特にここで述べる必要はないと思われるため)


次の段落(p.199 8行目-p.201 3行目)に入ろう。

先の段落の最後にあった疑問を受けて、この段落は次のように始まる。

『その理由はまさしく、現在の感覚と純粋想起のあいだに、本性の相違ではなく程度の相違しか認めないことにある。この相違はわれわれによれば根本的である。』(p.199 8行目-9行目)

『相違』が三つ出てきたので、念のために最後の『相違』解説しよう。これは、もちろん、ベルクソンが少しシャレているのであって、『本性の相違』をみるのか、結果的に『程度の相違』しかみないのか、二つの間の『相違』である。

ここから、ベルクソンが『相違』が『根本的』である理由を解説し始める。

『私の現在の感覚は、私の身体の表面のある決まった部分を占めるものだ』(p.199 9行目-10行目)

『純粋想起は逆に、私の身体のどんな部分にも関与することがない』(p.199 10行目-11行目)

『純粋想起』について、再び遡って見てみよう。読者はこの章の前書きにこういう記述があったのを覚えておられるだろうか?

『最後に、純粋想起は、権利的にはおそらく独立しているのだが、純粋想起を現像する色鮮やかで生き生きとしたイマージュのなかでしか、通常は現れることはない』(p.190 7行目-9行目)

これも、『純粋想起』は独立して存在する。なぜなら、それは、おそらく、ニューロンの結びつきにより情報がわれわれの脳のなかで物質化したものだからだ。しかし、それは、本質的に情報であり、独立してはいるけれども、その存在自体に意味を持たせるのは、『色鮮やかで生き生きとしたイマージュ』の中であり、それは、すなわちわれわれの肉体と言っても良いだろう、と述べた。

続きをみよう。

『おそらく、純粋想起は物質化されることで感覚を生み出すのだろう。しかし、ちょうどそのときに純粋想起は、想起であることをやめ、現実に生きられた現在の事物の状態へと移るだろう』(p.199 11行目-13行目)

これも、同じ意味で言っていることは、賢明な読者の方々ならおわかりいただけるはずだ。さらに、ベルクソンはこう続ける。

『私が、純粋想起に想起としての性質を取り戻させるためには、私が過去の奥底から、潜在的なものたるこの想起を呼び起こす操作に立ち戻るしかない』(p.199 13行目-15行目)

ここでは、つまり、『純粋想起』は呼び覚まされるとすぐに物質化した『現在』となってしまうので、『想起』としては、『その性質を取り戻させるためには』、もう一度、「思い出す」ということ、ベルクソンの言葉を借りれば『過去の奥底から、潜在的たるこの想起を呼び起こす操作に立ち戻る』ということになる。

(2012年2月28日筆者注 「『その性質を取り戻させるためには』、」の一文を挿入)

一方で、『純粋想起』を『活動的で能動的な』ものにすることは、『現在的なもの』すなわち『運動を引き起こす感覚』に化すことである。(p.199 15行目-17行目を要約)

以下、p.199 17行目-p.200 17行目は、『大部分の心理学者たち』(p.199 17行目)に対するベルクソンの批判である。ここは、要約しよう。

問題点としてまず上げられているのは、

『純粋想起のうちに、より微弱な知覚、生まれつつある諸感覚の一つの総体しか見ていない』(p.199 17行目-p.200 1行目)

という問題が再び指摘される。『本性の相違ではなく程度の相違しか認めていない』(p.199 8行目-9行目)という部分の繰り返しだ。

それは、つまりは、『想起を物質化し、感覚を理念化する』(p.200 3行目)ということになる、という指摘だ。

結果、『心理学者たち』は、『想起』を『イマージュの形でしか認識しない』(p.200 4行目)。

そして、『感覚の大部分を想起に移し替えたので、また、この想起の理念性のうちに感覚そのものとは対照的で異なった何かを見ようととしないのだから』(p.200 5行目-7行目)、『純粋な感覚』に対しては、想起の性質を残すことになる(p.200 7行目-9行目)

これらのことが、次にこのような表現でまとめられているので、ここは少し解説しよう。

『実際、仮説からしてもはや働きかけることなき過去が、微弱な感覚で存続することができるとすれば、それはつまり無力な感覚が存在するということである』(p.200 9行目-11行目)

『仮説からしてもはや働きかける事なき過去』とは何か、ということをまず説明すべきだろう。これは、第一節の説明ではこの部分、少し不十分なところもあり、理解されていない読者もいるであろうと思われるからだ。従って、念のために、再び入念に繰り返し説明しよう。

(2012年1月26日筆者注:表現を変えると同時に、二つに段落分けしていた部分を1つにまとめた)

まず、『心理学者』たちの『仮説』とは、

『思い出された感覚はそれとより深く関与するときより現実的なものとなることから、感覚についての想起は生まれつつある感覚そのものであった』(p.194 4行目-6行目)

ということであろう。

(2012年2月29日筆者注 上の文と下の段落を二つに分けた)

ところで、この仮説を検証するために、ベルクソンは、『催眠術をかけられた被験者が、熱い、熱い、と言われて最後には熱さを感じるようになるからと言って暗示の言葉それ自体がすでに熱いということにはならない。同様に(中略)想起は生まれつつある感覚であったと結論してもならない』(p.194 11行目-14行目)と言っていた。しかしこの指摘にもかかわらず、『心理学者たち』の『仮説』は、おそらく怪しいながらも、『想起が現実化するにつれて変化するという異論の余地なき真実の恩恵を受けている』(p.195 1行目-2行目)とも続けていた。

そのため、そのあと今度は、

『これとは逆の歩み - とはいえ、ここで身を置いている仮説のなかでは、逆の歩みも同じく正当なものであるはずだ - を辿りながら推論するとき、つまり、純粋想起の強度を増加させる代わりに感覚の強度を減少させるとき、この種の推論の不合理が発覚する』(p.195 2行目-5行目)

と、ベルクソンは陳べていた。前節の解説で私が端的に「しかし、微弱な感覚が、はっきりと思い出せる強い想起であるということは、おかしいではないか。」と言ったところでもある。

(2012年2月29日筆者注 上段落は二つに分けていたものを一つにまとめた)

さて、延々と繰り返して説明したわけだが、先ほどの、

『実際、仮説からしてもはや働きかけることなき過去が、微弱な感覚で存続することができるとすれば、それはつまり無力な感覚が存在するということである』(p.200 9行目-11行目)

ということの説明も、今度は簡単に理解していただけるのではないかと思う。

まず、『もはや働きかけることのなき過去』は、心理学者達の説を批判している部分での、
(2012年2月29日筆者注 「心理学者達の説を批判している部分での、」を挿入)

『思い出された感覚はそれとより深く関与するときより現実的なものとなること』(p.194 4行目-5行目)

に相当し、

また、つぎの『微弱な感覚で存続する』は、『感覚についての想起は生まれつつある感覚そのものであった』(p.194 5行目-6行目)、すなわち言い換えれば、「微弱な感覚が、はっきりと思い出せる強い想起である」と等しく、つまりは、

『無力な感覚が存在すると言うことである』

ということになる。

以下、数行をまとめると、同様に、この仮説においては、『純粋想起』は、身体のどこにも関与しないし、それが、『生まれつつある感覚』であるとするならば、それは、身体のどこにも関与しない『生まれつつある感覚であろう』となるはずである。

『ここからある錯覚が生じる』(p.200 13行目)とベルクソンはと切り出す。

『この錯覚は感覚のうちに流動的で非伸張的な状態しか見ることがなく、この状態が伸張性を獲得し、身体のなかで固定されるのは偶然によってでしかない』(p.200 13行目-16行目)

やや難しい表現があるので解説すると、まず、『この錯覚』とは、先に述べていた『もはや働きかけることのなき過去が微弱な状態で存続』したり、「身体のどこにも関与しない『生まれつつある感覚であろう』」ということである。

また、その『錯覚』とは、『感覚のなかに流動的で非伸張な状態しか見ることはなく』、つまり、感覚はごく抽象的でまるで数式のようにきちんと定義されたものであると主張しているわけであり、『この状態が伸張性を獲得し、身体のうちで固定されるのは』というのは、上に見たように抽象的で数式のようにきちんと定義されたものであるはずの感覚が、なんらかの特定された身体の感覚として具体化されるのは、『偶然によってでしかない』と、ベルクソンが批判する『心理学者たち』の説を指している。

(2012年2月29日 上段落表現を変更して意味を取りやすくした)

具体的に「痛み」という感覚を考えてみよう。『心理学者たち』の説によると、「痛み」は何らかのきちんと定義されている数学の変数xのようなものだ。これが、われわれのからだの「痛み」として具体化するのは、いったいどうやってか?われわれの身体に、何かものが当たったり刺さったりあるいはその他の方法で傷ついたりすると、抽象的な「痛み」xは、その定義に従って微少の痛みという感覚の何倍かの具体的な痛みに変わる、ということになるだろう。

別の言い方で、繰り返すならば、『心理学者たち』の説によれば、何らかの定義された「痛み」なら「痛み」の感覚が元々定義されている。それは、仮説からして、はっきりと知覚されるごく弱い感覚で、しかし、それは、あくまで観念であり、『非伸張』であるわけであるから、なんらかの偶然によってでしか『伸張性』をもち『固定化』されることはできないだろう。

(2012年2月29日筆者注 「しかし、それは、あくまで観念であり、『非伸張』であるわけであるから、なんらかの」という文言を上段落に挿入)

と、言い換えることもできるだろう。

しかし、ベルクソンによると、一見正しいようにも思えるこの考え方は、すでに指摘しているようにそれらは『錯覚』であり、

『この錯覚は、われわれが見たように外的知覚の理論を深く汚染しており、物質についての様々な形而学上のあいだで係争中の実に多数の問題を惹起している』(p.200 15行目-17行目)

と批判する。

そうして、ベルクソンは、自分たちの考えを受け入れなさい、これは『避けがたいこと』なのだと言う。どういうことだったか。

『感覚は、本質からして伸張的で局所化されている、それは運動の一つの源泉であるが - 純粋想起はというと、非伸張的で無力であるので、どうやっても感覚の性質を帯びることはない』(p.200 17行目-p.201 3行目)

つまり、『感覚』と『純粋想起』は本質からして違う。この段落のはじめを思い出してもらえば十分であろう(p.199 9行目-17行目)。

さて、図らずも、『純粋想起』であれ、書かれた文章でれ、情報は過去であり、それを現在に生かすには、『色鮮やかで生き生きとしたイマージュ』が必要だと体験していただいたところで、次の段落(p.201 4行目-13行目)へ行こう。


まず、一般に『私の現在』は『感覚-運動的』であるという説明からはいる(p.201 4行目-8行目)。要約すると、『感覚-運動的』な私の現在には、過去のイマージュのうち、『役に立ちうるものだけ』(p.201 8行目)が、この『感覚-運動的』なものに組み入れられる。つまりは、『純粋想起』になると言っていいだろう。

『しかし、それがイマージュとなるや否や、過去は純粋想起の状態を離れ、私の現在と混じり合う』
(p.201 8行目-9行目)。

解説はもう不要だろう。

残りは、最後のまとめであり、難しいところもなく、ここは全文を引用しようかと思う(p.201 9行目-13行目)。

『イマージュへと現実化された想起は、それゆえ、この純粋想起とは根底的に異なっている。イマージュとは一つの現在の状態であり、その出所である想起によってしか、過去の性質を帯びることはできない。』(p.201 9行目-11行目)

『逆に想起は、それに役に立たないままであり、感覚との一切の混合がまったくできないままであり、現在との繋がりを持たず、従って非伸張なものである限り、無力なのである』(p.201 11行目-13行目)

後半部分の、『逆に想起は』というところの説明が少しわかりにくいかかもしれないので、簡単に解説すると、この『想起』(ここでは、『純粋想起』と等しい)は、単なる情報であり、まえに催眠術師の「熱い」という言葉がすなわち、熱いわけではない、という説明にほぼ等しい。

この情報(=想起)が、たとえば腕に熱湯がかかるというようなきっかけで思い出される、という経緯をたどって現在のわれわれの生き生きした生命(肉体)よって辿られることでしか、それは『感覚』としての現在にはならない。当然、『想起』はそのままであり続け、一方で、『感覚』は現在の『私』というイマージュと同一になる。

レコードを知っている人なら、より容易に理解できるかも知れない。


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